私立郁文学園 あつあつ 結花

8月13日(Fri)

結香 『浴衣を披露する』

 やった!

 斉藤先輩は目を丸くして私達を見ていた。

「お待たせしました、先輩」

「あ、ああ。いや別に待たされたわけじゃないが」

 珍しく驚きが表に出ている斉藤先輩。中川先輩はいつも通りニコニコしていて、藤堂先輩は斉藤先輩を見てニヤリ、と笑っている。

 私達四人…私、佳子、武藤、彩は浴衣姿だった。さすがに学園で浴衣と言うのは目立つ。ここに来るまでもずいぶんと注目の的になったけれど、斉藤先輩のこんな反応が見れたならそんな事は大したことじゃない。まずは印象づけは成功!

 もちろん私がそんな事を考えつくはずもない。例によってあくまでも自己中心のはずなのに人の世話ばかり焼く、私の友人達の仕業だった。

 

 日曜日のプールが終わってから。

 着替えて先輩達に挨拶して別れた後、私は三人と喫茶店『バーバリアン』で一休みしていた。名前は物騒だが、実際はしっかりとした仕切りで各テーブルが区切られて落ち着いて話が出来るように配慮された店だ。何時間いても嫌な顔一つされない店なので、学園生の間では何かじっくり話し合いたい時はここに来る人も多い。私達もその落ち着いた雰囲気と香り豊かな紅茶が好きで、演舞の練習のあとに良く来ていた。

「楽しかったね〜」

 ほふぅ、と佳子がアイスティーを一口飲んだ。

「そうだな。久しぶりに泳いだ」

「また三勝三敗でしたわね。なかなか決着が付きませんわ」

「その胸の抵抗がなくなれば二割はスピードが上がるのにな。まったくどこまで大きくなるんだ」

「ふふ、内緒ですわ」

 制服の上からでもはっきりとわかる大きさの胸をそらせる彩。武藤がムッと眉をひそめる。

「それはそうと、結香」

「なに?」

「斉藤先輩とお楽しみでしたわね」

 来たか。

「あー…すごかった。二人だけの世界というのを間近に見た」

「私は仲間に入りたかったのに〜」

 武藤と佳子も同調する。

 覚悟はもう出来ていた。何しろ小一時間も私と先輩は二人だけで遊んでいたんだから。斉藤先輩が「あれ、蓮馬達の競争が終わったみたいだぞ」と言うまでは私の頭の中からははっきり言って完全に彼女達のことなど抜け落ちていた。

 だから、もう認めなくちゃ。

「そろそろご自分の気持ちに気づきました?」

「…うん。私、斉藤先輩の事を好きみたい」

「…ありゃま。あっさり」

 武藤が拍子抜けした顔で私を見た。

「もう少し抵抗するかと思ってたんだけど」

「仕方ないでしょう。いくらなんでも誤魔化せない事くらいわかるわよ」

「そもそも自覚するのが遅すぎなのですわ。でも一応自分で気づいたのは合格ですわね」

「あれだけ嫌い嫌いーって言ってたのにねぇ」

 佳子が頬杖をついて私を見る。

「…そうなのよね。どうなっちゃったんだろう、私」

 とても不思議。いつの間にか斉藤先輩を意識するようになって、どんどん一緒にいたくなった。もしかしたら恋をしているかも、と思ったのは多分、パネルの修理を手伝いに行った後。あの時の私を先輩がどう思ってるかがとても気になった夜、あの時に少し自分の気持ちに気がついたような気がする。それから甘く胸が痛むたびに「違う」って言い聞かせてきたけれど…。

「でも片想いだもん。これ以上どうにもならないよ」

「はあ?」

 武藤が「何を言ってるんだコイツは」と言いたげな眼で私を見た。

「何よ」

 あきれたような溜め息をつく彩を睨む。

「鈍感なのは斉藤先輩だけかと思ってましたら…結香も相当なニブチンですわね」

 ニブチンってアンタ、お嬢様が使う言葉じゃないでしょうに。

「どう言う意味よ」

「結香、本当にわかってないのか?自分が人気があるってことは知ってるんだろ?」

「そりゃラブレターも何通かもらったことはあるし、口説かれた事もあるけど。でも他の人が私のことをどう思ってくれたとしても先輩は何とも思ってないもの」

「斉藤先輩は結香の事、好きだと思うよ」

 佳子がぽつりと言った。

「プールで先輩、とっても楽しそうだったもの。結香、気づかなかった?先輩ってね、結香の顔には直接水を掛けないようにしてたんだよ」

「ええっ!?」

「ほお…やるな、斉藤」

 そ、そうなんだ…私、気づいてなかった。

 あ、心臓のビートがどんどん高まる。

「見かけ無愛想でちょっと怖そうだけど、斉藤先輩ってそういう気の使い方する人なんだって中川先輩が言ってた。でも、そもそも斉藤先輩は女の子とあんなに楽しそうに遊ぶ事なんて今まではなかったんだって。だから」

「つーか端から見たらお前らバカップル以外の何者でもなかったもんな。もうラブラブ」

 う、うわーっ!顔がカァッと赤くなる。もしかして、もしかしてそうかなって思ってたけど、でもでもでもっ!

「私も斉藤先輩は結香のことを、少なくともただの後輩以上だと思ってると思いますわ」

 彩は静かにオレンジジュースを一口飲むとグラスを置き、「ですけど」と身を乗り出した。

「このままでは結香達の間に進展はない、とも思います」

「ど…どうしてよぉ」

「あなた達、両方とも見ている方がじれったくなるほど不器用ですもの。だいたい結香、あなたは今日私達と帰ってる場合ではないのですよ?ブールでいい雰囲気になったんだから、そのまま一緒に帰るとかいう考えは浮かばなかったんですの?」

「うっ…」

 そ、そうなのか…。

「斉藤先輩も斉藤先輩です。中川先輩と藤堂先輩にあっさりついていっちゃって…」

 ヤレヤレ、と首を振る彩。武藤が後を引き継いだ。

「とまあ、お前達だけでは事態の打開は難しかろうという結論が出た」

「そこで提案〜」

 何やら結託する三人。

 

 とまあそう言うわけで私が斉藤先輩を花火大会に誘うと言うシナリオが完成したのだ。彩いわく、

「私達は途中ではぐれます。花火の夜に二人っきり、この状況を活かせないようだったら結香、あなたは女失格ですわ」

 との事。余計なお世話だ、と思いたい所だけど正直な話とてもありがたかったりする。確かに私は今まで一度も恋愛経験がないし、誰かにお膳立てしてもらわないと多分自分から告白なんて出来ないと思う。今まで自分はもっとしっかりした強い人間だと思ってきたけれど、いざ人を好きになってみるとどれだけ弱い人間だったのかを思い知る。佳子なんて幼なじみの彼にちゃんと自分から告白して恋人同士になったって言うのに、まるで保護者みたいに接してきた私は今じゃ佳子に助言を頂いている始末だ。

「よく似合ってるよ、みんな」

 中川先輩が斉藤先輩の脇をつっついた。

「ほら、匡輝もちゃんと感想を言わないと」

「あ、ああ…いいな、浴衣姿は」

 ドキドキドキ

 何だか私を見て言ってくれたような気がして胸が勝手に高鳴りだす。自意識過剰だと思うけど、どうやら恋は妄想力を大幅にアップするものらしい。

「じゃあ早速行きましょうか。匡輝はちゃんと女の子たちをエスコートする事。今日は人が多いからね、はぐれないように注意してね」

 藤堂先輩が先頭に立って歩きだした。自然に中川先輩が横に立つ。武藤は彩と佳子を両側に従えるような形でその次に続く。

「斉藤先輩は結香のエスコートですよ。この二人は私が面倒見ますから」

 武藤が斉藤先輩を追い抜きながら顔をこちらに向けて、先輩にみえないようにウインクした。もう、あの娘ったら露骨すぎるでしょ!

「…じゃ、行こうか」

 斉藤先輩が私の前に立った。いつもの柔道着にTシャツという姿じゃなく、今日の先輩は私服姿だ。黒のスラックスに薄い青のシャツ。

「あ、はい。先輩の私服姿って初めて見ました」

「何か的音がうるさくってな。どうしても私服くらい持ってこいって言うんだ。確かに学生服で花火大会っていうのも色気がなさすぎるとはおもうけど」

 あらためて藤堂先輩に感謝する。私達はそろそろ人が多くなりはじめてきた夕暮れの道を三園公園に向かってゆっくりと歩きだした。

匡輝 『はぐれちまった』

「いたか?」

「いません。はぐれちゃったみたいです」

 俺達は三園公園までは固まって歩いていた。的音とゴッちんは仲良く手を繋いでいるから心配ない。武藤と寺西、蓮馬も手を繋いで歩いている。で、なぜか武東だけは演舞の友達とは少し距離をおき、俺の隣を歩いていた。何でそんな配置になっているのかはわからないが、俺にとっては嬉しい事だ。

 だが三園公園につくと俺達三グループの距離はどんどん離れていった。何しろ凄い人出である。ゴッちんと的音は早々に見失ってしまい、俺達は五人で仕掛け花火を見たり前座の小さめの打ち上げ花火を見たりしながら公園を歩いていった。

 三園公園は大きな池を中心とした公園で、黒々とした水面に花火の輝きが映り込んで幻想的な美しさをかもしだしている。普通の祭なら提灯とか電灯とかが煌々と掲げられているのだろうが、花火大会のさなかにそんなものは無粋にすぎると言うことで今日は街灯くらいしか明かりはない。だから一度はぐれるともう一度合流するのはかなり難しかった。

 というわけで充分注意していたはずなのだが、気がつくと武藤達三人の姿はどこにもなかった。慌てて捜すが、今さら見つかるわけもない。

「電話かけてみます」

 武東が携帯を袂から引っ張り出した。俺達は道の端により、ちょっとだけ人波から逃れる。

「あ、武藤?今どこにいるの」

 武東が電話をしている間、俺は武東を守るように塀と武東の間に立っていた。

「え?そうなの、うん。うん」

 武東が電話をしまうと俺を見あげた。俺の方が10cmほど高いから、ここまで近い距離だとどうしても武東が俺を見上げるような格好になる。

「あの先輩」

「あいつら、どこにいるって」

「先に打ち上げ花火の良く見える所に行ってるそうです。何でも彩のお家の人とたまたま会ったらしくって、『こちらは心配いらないから』って言ってました」

「つまりこちらはこちらで行動しろって?」

「…らしいです」

 参ったな。俺はどちらかというと武東と二人きりなのは歓迎したいくらいだけど、武東も同じとは限らない。何とか武藤達と合流した方がいいんだろうか。

 …でも、もしかしたら。

 俺はゴッちんの言葉を思い返した。

『武東さんは匡輝の事、ただの先輩だとは思ってないと思う』

 そうなんだろうか。もしそうなんだとしたら、俺はどうするべきだろう。

 俺は武東のことを好きだ。

 的音に対する気持ちは憧れ半分だったが、武東に対する気持ちはあの時とは違う。俺はちゃんと一人の女の子として武東が好きなのだ。そしてもしかしたら武東も俺のことを悪くは思っていないかもしれない。

「先輩?どうしたんですか?」

 武東が俺を見上げた。いつもの勝ち気な眼じゃなく、かと言って心配そうな眼でもない。俺の自惚れじゃなければ、楽しそうな嬉しそうな。

 そうだ。武東が俺のことをどう思っているかは俺が考える事じゃない。それは彼女が決める事であって、俺が出来る事はちゃんと気持ちを伝える事だけじゃないか。結果武東がそれを受入れてくれるのか拒絶するのかはわからないけれど、その結果を今から予想して準備してなんてやっていても何も変わらない。

 踏み出すのはこちらから。

「武東。二人だけで花火を見る事になるけど、いいかな」

「…はい!」

 武東は少しだけ驚いたような表情になったが、すぐに満面の笑顔で頷いてくれた。

結香 『告白』

 ドーン!パラパラパラ……

 次々に大輪の光の花が咲く。様々な色に染まる夜空の下で私達は肩を寄せ合って座っていた。見上げていた視線をほんの少し右に向けると先輩の顔が目に入る。

「……」

「……」

 花火を見ている時に言葉はいらない。私達は黙って夜空を見上げていた。

 ドンドンドン…!ドドーン…ドン!!

 フィナーレに次々、特大の玉が星へと駆け上がっていく。

「わぁっ…」

 思わずため息がもれた。連続して輝く夜の華。赤から緑、緑から青、そして黄色、橙…やがてすべての色が夜空に溶けて、今年の三園花火大会は終了した。喧騒が戻ると同時に火薬の匂いがあたりに漂う。

「ふぅ…」

 先輩が息をついた。

「こんなに間近で見たのは初めてだな」

「そうなんですか?私は去年も見にきましたけど」

「去年は学園の屋上に集まって見てた。あそこからも結構見えるんだが、やっぱ近くで見ると違うな」

「はい」

 ざわざわと人が立ちあがって行く。私達が座っているのは昔この公園がまだ城の外割りだった頃の名残である石垣の残骸の上。石垣と言ってももう残っているのはわずかなもので、座っていると目線は立っている人達と変わらない。

 そろそろ行きましょうか。

 そう言うべきなんだろうけど、私は立ち上がりかねていた。多分私達には言うべき事が残っている。少なくとも、私には。

「俺は前から武東の事、知ってたんだ」

 不意に先輩が私を見た。

「的音から聞いたんだけどな。ほら、アイツは学園の情報とか噂とかが大好きだから。で、二年で人気がある女の子っていう話だった。薙刀が得意で、性格も明るくて、そして…可愛いって」

 うっ…。『可愛い』と言われるのは嬉しいけど、どう答えるべきなのかわからない。気のきいた受け答えが思いつかなくて、私はとりあえず冗談っぽく流してみた。

「えへへ…そこまで褒められると、照れますね」

「で、同じ南軍になって武東が演舞長ってわかって…ああ、確かに綺麗な娘だなって思った」

「あう…ありがとうございます…」

 どうしたんだろう、先輩。何で私の嬉しがるような事ばかり言うんだろう。もしかして…もしかして…。

「結構三年でも騒いでる奴らはいたんだぞ。あの武東が同じブロックだって喜んで」

「先輩は?」

「俺は…美人は好きだから嬉しくなかったわけじゃないけど、別に仲良くなろうとか言う気持ちはまったくなかった。俺は俺で手一杯だったし」

 なかった…じゃあ、今は?

 先輩が言葉を続ける。

「着替えを見てしまった時は心臓が止まったぞ、正直。でも考えてみれば俺達はあの時に初めて会話したんだよな」

「会話っていうか、私が一方的に責め立てたような…」

「無理もない。悪いのは俺だったし、それに…」

 にやっと笑う先輩。

「充分元は取ったぞ?」

「…もう!エッチなんだから!」

 手の甲を軽くつねる。

「あれからまだ一ヶ月もたってないんだよな」

「そうなんですよね」

「だけど」

 先輩は私を見た。

「俺は武東が好きだ」

 特に力を込めて言われたわけじゃない。むしろ軽く、「明日の天気は晴れだ」みたいな口調だった。だけど、その言葉はおもいきり私の中心を撃ち抜いて。

 心臓が破裂しそう。

「後輩としてじゃなく、友達としてでもなく。女の子として武東を好きだ。個人的な要望としては、恋人としての付き合いも希望している。もちろん無理に迫るつもりはないけど、あくまでも俺の勝手な希望として」

 優しく私の眼を見つめる。表情はいつもの通り無愛想なままだったけど、暗闇でも判るくらいに顔が真っ赤だ。その先輩の顔を見ていると、もうこれ以上速くなることはないだろうと思っていた鼓動にターボが入った。いや、ニトロかも。

「あ、あの、私」

 ドクンドクン。胸が痛いくらい高鳴る。頭は真っ白で肩はガチガチ、きっと頬も真っ赤だろう。ああ私、今変な顔してないかな。

「私、斉藤先輩のこと」

 だけど言わなくちゃ。どんなに変でも、気が利いていなくても。

「先輩の事」

 先輩は言ってくれたんだから。

「好きです。誰よりも好きです。恋人になりたいです!」

 言った。

 言っちゃった。

 生まれて初めての恋の告白。

「……」

「……」

「…あは、あはははは!」

 しばらく私を見つめていた先輩は、やがて笑いはじめた。

「せ、先輩?」

「ははっ、いやすまん、止まらねぇ、ははは」

「先輩!人の告白を笑うなんてひどいです!」

 ギュッ!と頬をつねる。すると先輩は何とか笑いやんで私を見た。

「ち、違う!その、嬉しくって」

「…はい?」

 頬をつねったまま睨みつける私。先輩はそれでも嬉しそうに笑う。

「いやもう凄く緊張してて。もし断られたらどうしようって、怖くて怖くて…正直花火なんか見てなかった。嬉しいよ、ありがとう武東」

「あっ、はっ、はい!」

 素直な先輩の言葉が身体にしみこんでくる。

「すまんな、あまりムードなくて。今までこういう経験がなかったもんだからどう告白していいのかわかんないんだ」

「そっそれは私も同じです!私もこういうの、初めてだし…」

 赤くなった顔を見合わせて笑う私達。

「で、質問」

「はいっ!」

「…俺のほっぺはいつになったら解放されるんだろう」

「…って、ごめんなさい!」

 さっきから先輩の頬をつねったままだった!慌てて手を離す。と、その手を先輩の手が包み込んだ。

「先輩?」

「小さい手だよな。どこにこんな力があるんだか」

 顔を近づけて見る。先輩の頬には力一杯つねった私のせいでしっかりと跡が残ってしまっている。

「あう、ごめんなさい…」

 と、気づくと目の前に先輩の顔。

「……」

「……あ…」

 先輩が私を見つめている。私は…そっと、眼を閉じた。

匡輝 『帰り道』

 静かに唇をはなした。

「あ…」

 武東が目を開く。至近距離でお互いを見つめ合い、少し照れて笑う。まだ唇に武東の柔らかくて温かい感触がしっかりと残っている。

「キス、しちゃいました」

「ああ」

 いかん、かっこいい言葉が出てこない。こういう時おのれの経験不足を痛感する。

「……」

「……」

 しばらく言葉を探していたのは武東も同じだったらしい。こういう時はどうするのが正しいんだろうか。

 武東はふふっ、と微笑んだ。

「…行きましょうか」

「そうだな」

 まあ正しいも正しくないもないか。俺達は俺達だ。

 俺と武東は並んで公園から出て行く人の流れに乗った。まだまだ人は多い。まだあと小一時間は花火大会の余韻を楽しむ人達で公園は賑わうだろう。

「結構大胆な事してたんじゃないですか?私達」

「人目、あったよな」

 今さらながら思い返す。

「でもあの時は武東しか目に入ってなかったから」

「先輩…!」

 …って、何を俺は恥ずかしいセリフをっ!? なぜか武東はえらく嬉しそうだし!

「あの、先輩」

 武東が俺の腕を取って軽く自分の腕を絡めてくる。そのまま優しく引かれるまま、俺達は人の流れからそれて立ち止まった。

「お願いが一つだけあるんですけど」

「何だ?」

 平静を装うが、何しろ武東は浴衣一枚という薄着。なにやら柔らかい感触がっ…!

「私の事…」

 武東は俺を見上げた。

「結香って呼んでほしいです。その…あの、恋人…だし…、キ、キス…したんだし」

 後半、どんどん真っ赤になってうつむく武東…いや、

「結香」

「はっ、はいっ!」

 弾かれるように視線を戻す結香。

「俺からも頼みがある」

「何でしょう!」

 いやに気合の入った返事に思わず笑みがもれる。こういう所、この娘らしいなぁ…。

「まず、敬語はいらない。地で喋ってくれ。それと」

 俺も多分結香と同じくらい真っ赤になってる。

「俺のことも名前で呼んでほしい。斉藤先輩、じゃ他人行儀だし」

「は、はいっ!じゃなくて、うん。で、その、ええと…ま…まさ…」

 もじもじ。う、うわーっ、可愛いっ!思いきり抱きしめてしまいたくなるのをなんとか押さえる。

「匡輝だ」

 こくり。頷くと結香は頬を染めながらも俺の眼をしっかりと真正面から見て

「匡輝」

 と俺を呼んだ。

「そうだ。これからはそう呼んでくれ」

「匡輝。匡輝。匡輝!」

「いや、こんな所で俺の名前を連呼しなくていいから」

 まわりの視線が…。

「えへへへ…あのですね、ううん…あのね、ここ何日かは『こうできればいいなっ』てずっと思ってたの。先輩が私の事、結香って呼んでくれればいいなって」

「匡輝だって」

「…匡輝が、ね」

 結香の満面の笑顔。恥ずかしい…でも嬉しい。脳が沸騰しているような気がする。

「だから今、とっても幸せ。恋愛映画とかで『このまま時間が止まればいいのに…』っていうセリフの意味、今なら分かるような気がする」

「俺も分かる。分かるけど、まだ時間を止めるわけにはいかんよな。明日からはさらに頑張らなきゃいかんのだから」

「もう、せ…匡輝!ムードないんだから」

 プウ、と頬を膨らませる結香。今まで絶対に俺には見せなかった顔がとても魅力的だ。

「何しろこれからもっと先があるはずだからな、俺達には。まだ始まったばかりなんだからこんな所で時間を止めるのはもったいない」

「…うん!」

 そう言うと結香はこんどはしっかりと俺の腕を抱きしめてきた。

 

「送って行かなくていいのか?」

「だって匡輝の家は反対側でしょう。それに私、女の子と一緒に花火を見に行くって言ったんだもの。匡輝がついてきたりしたらウチの父がどんな反応をするか」

「そのくらい大したことないんだけどな」

「ふーん…じゃあいつか、必ずね!でも今日は大丈夫よ。ちゃんとバス停まで迎えに来てもらうし」

 結香は携帯をプラプラと揺らした。まあそれなら大丈夫か。

 実際の所、結香は薙刀道場の娘としてかなりの武術を身につけているらしい。そこらのチンピラの一人や二人は簡単に叩きのめすくらいの腕はあるそうだ。もちろんだからと言って安全とは限らないのが世の常だが、バス停まで迎えに来てもらえるんなら心配はないだろう。

「あ、もうバスが来た」

 結香の視線を追うと確かにバス停の上の到着ランプが点滅している。待つ事もなくすぐに向こう側からバスが近付いてくる。

「匡輝、今日は楽しかったし…嬉しかったよ。また、明日ね」

「ああ、また明日。お休み、結香」

 俺はそう言うと結香の肩を抱いた。結香が軽く顔を上げて眼を閉じる。

 唇が触れあうだけのキスをする。

「お休み、匡輝。またね」

 バスのドアが開く。結香はコロンコロンと下駄の音を軽く響かせながらバスに乗り込んだ。

 一番後ろの座席に乗った結香は、見えなくなるまで俺に小さく手を振り続けていた。

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