私立郁文学園 あつあつ 結花

7月21日(Wed)

匡輝 『不幸な事故』

「じゃあこの案でいいな?」

 俺は南軍大幹部の連中が頷くのを確認して黒板に貼っていた模造紙を剥いでクルクルと巻いた。

 貼ってあったのは今度の運動会で採用する大看板のデザイン案。鎧武者が真っ正面から迫る図案で、ステンドグラス風にカラフルな色彩を黒の線で細かく分けてある。見栄えもよく迫力があってしかも比較的描きやすいデザインだと自負していた。

 『大看板』とは正式には『応援席バックボード』と言う。運動会の時に階段状の応援席を鉄骨で組み上げることは珍しくないが、郁文学園ではその上部に横23.4m、縦5.4mの巨大なパネルを組み付けるのである。もちろんそんな大きなパネルがあるわけではなく、実際は1.8m×1.8mのパネルを横に13枚、縦に3枚針金で固定する事によって大看板を組み上げる。

 このパネルにそれぞれのブロックが思い思いの趣向を凝らした絵を描くのだが、そのデザイン案提案から作業の監督、当日の準備まで全てを担当するのが応援席バックボード部(看板部)、そしてその責任者が『応援席バックボード長』通称『大看板長』なのであった。そして今年の南軍の大看板長が誰あろう、この俺なのである。

 郁文学園運動会は例年九月の第二日曜日に行われ、四つのブロックに分かれて競われる。それぞれのブロックは北軍・南軍・東軍・西軍と呼ばれていた。そしてそのブロックの中で仕事を分担しており、それぞれの仕事の責任者は大幹部と呼ばれる。

 俺は一年のころから大看板に関り、先代、先々代の大看板長の下で大看板作業というものをしっかりと習得してきた。だから今、俺が大看板長であることは南軍の誰もが認めていることであるし、そのデザイン案もまず反対されることはないとわかってはいたが、それでもやはり緊張する。自信ありげに振る舞ってはいたものの、内心では異論が出たらどうしようと結構ヒヤヒヤしていたのだ。

 それがあっさりと…いや、かなり好意的に認められたので少し浮かれていたのかもしれない。解散してしばらくしてから俺は教室に色指定などを書き込んだファイルを置き忘れてきていた事に気がついた。

(おいおい、一番大事なもの忘れてどうするんだ俺は)

 これが無くなったら今まで苦労してデザインしたものをまたやり直さなくてはならない。慌てて話し合いをしていた2-5の教室に戻った俺は、引き戸に何か張り紙がしてあったのに気づかず、そのまま飛び込んだ。

 

 ……おや?

 

 俺の目の前にはやや前かがみになった一人の女生徒がいた。

 腰まで届くような長い黒髪がまず目に入った。艶やかなその髪の間から俺に向けられたのはどことなく猫っぽい、意思の強さを感じさせる大きな瞳。その下でピンク色の形のいい唇が少し開いていた。肩をすぎた柔らかそうな黒髪は、その白い肌の上でなお一層輝きを増し…

 そう、白い肌。

「あ……」

「な……」

 見つめ合う俺達。その時、その娘がかろうじて身につけていたスカートがストン、と落ちた。

 呪縛が解ける。

 我に返った女生徒は、素早く上着を胸に抱いて身体を隠すと頬を染めて叫んだ。

「な、なんですかっ!今着替え中です、出てって下さいっ!」

「いや、すまん」

 俺は謝ると教卓の上に乗っていたファイルを掴み、なるべく女生徒の方を見ないようにしながら教室を出た。引き戸を閉めて、何か貼ってあるのにやっと気づいてよく見てみる。

「……女子演舞着替え室。attention!『覗いたら殺しますby武東』…」

 そうか、どこかで見た事があると思ったら、武東か。

 今さらながら鼓動がドッキドッキと高まりだす。というか今まで心臓が止まっていたような気がする。

 …にしても。やっちまった。

 よりによって…武東の着替えを覗いちまったよ俺は。しかも結構しっかりと見たよな。思わず思い出してしまう。

 白…いや、薄い青のブラとショーツ。ブラの肩ひもは右だけ少しはずれていて、案外豊かな胸の膨らみが少し見えていた。あっかたくて柔らかそうな肩から腰にかけてのラインはそのままスウッと長い脚に続いていて…。

(いかんいかんいかん!何を思いだしてるんだ俺は!)

 いやそれにしても良いものを見せてもらった…じゃなくて!

 俺が廊下で頭を抱えたその時、勢いよく扉が開かれた。俺はその向こうに怒りに満ちて立っているだろう武東にとにかく頭を下げた。

「悪かった。俺が不注意だった。謝る」

「……」

 睨みつけられている気配。

「斉藤先輩」

「すまん」

「字は読めるんですよね」

 冷たい口調と蔑みに満ちた言葉。だが反論の余地はない。俺はさらに頭を下げた。

「そのつもりだ。言訳になるが、気がつかなかった」

「わざとじゃないんですか」

 武東の口調は厳しいが、さすがにそう誤解されては困る。俺は顔を上げると武東の眼を見て力説した。

「信じてくれ。いくらなんでもあんなに堂々と覗きをする勇気はない」

「どうだか」

 袴姿の武東はフン、と擬音がしそうな表情で俺を睨みつける。その迫力に俺はただ小さくなるしかない。

「それに…」

 さらに厳しくなる目つき。いよいよ小さくなる俺。

「…それに何ですぐに出ていってくれないんですか」

「……」

 あ、なるほど。

 つまりアレだ、俺が着替えを覗いてしまった事も気に食わないが、その後の俺の行動…冷静に用事を済ませてから出ていったと言う事もお怒りの原因か。本当は単に頭真っ白で「ファイルを取らなくちゃ」と言う最初の目的以外何もできなかっただけなんだが…。

 こういうことは初めてじゃない。俺はどうもいつも冷静沈着、なかなか動じない鉄面皮と思われているらしいのだ。その原因は自分でも分かっている。俺は内心では慌てているとなおさら顔面が無表情になってしまう手合いの人間なのだ。それを人は「あいつは謝っても腹の中では笑ってやがる」などと言う。誤解される俺が悪いとはいえ、やはり心が痛む事にかわりはない。

 だけど信じてくれようとくれまいとちゃんと言わなくちゃならんだろうな。と思って口を開こうとした俺だが、武東は待ってはくれなかった。

「もういいです。この事はなかったことにしますから、先輩も忘れて下さい。それじゃ」

 切り口上でそう言うと武東はつい、と顔を背けて去っていき、俺は間抜け面を晒したまま廊下にとり残された。

結香 『何なのよあれは!』

「セイッ!」

 太鼓の音に合わせて一文字の構えから突き、払い、勢いに乗せて反転しつつ最後に力強く薙刀─私達は演舞刀と呼ぶ─を振りおろし、静止する。ドン、と太鼓が響き、私たちは構えをといて演舞刀を右に引きつけて礼をした。

「これが最初の型になるから。まずはここをしっかり練習しましょう」

「はい」「うん」「わかった」

 皆がそれぞれに返事をする。

「それじゃ十分休憩します。その後でこの型を何回かやってみるから」

 私は二年生で女子演舞の大幹部だから、当然舞員(誤植ではない)の中には先輩もいる。と言うことは口調も少し丁寧にならざるをえない。まあそのくらいは最初っからわかってたから何てことはないんだけど…。

「どしたの〜。何か怒ってない?」

 佳子が隣に寄ってきた。のんびりした口調の滅多に怒ることのない穏やかな娘だ。入学の時に知り合って以来、私はこの娘と親友と言っていい関係にある。

「ま、ね」

 武道場の壁に寄り掛かる。演舞刀を持ったらそんな気持ちのふらつきはどこかに置いてきてしまうはずだったが、どうも顔だか動きだか、とにかくどこかにいらつきが出ていたらしい。

「何かあったの?着替えに行ってから…だよね」

 観察されてるし。

「二日目だからキツいのはわかるけど、それとは違うみたいね」

「佳子ー。そんな事大声で言わないでよ?」

「大丈夫だよー。ちゃんと小声で言ってるじゃない」

 ぷぅ、と佳子がほおをふくらませるけど、童顔で色白の佳子がやっても可愛いだけで何の迫力もない。

 ま、生理二日目っていうこともあっていらついてるのは事実だけど…。

「…斉藤先輩よ。大看板長の」

「うん、斉藤先輩がどうしたの?」

「あの人、私の着替えを覗いたのよ」

「ふぅん……って、えええっ!む、むぐっ」

 私は慌てて佳子の口をふさいだ。こちらを見ている何人かに手を振って「なんでもない、なんでもない」と誤魔化す。

「もう佳子!あんまり大声出すのやめてよ」

「…ご、ごめん。でも本当?」

「ま、正確にはそのつもりはなかったみたいだけど。結果としてしっかり見られたわよ」

「て言うことは事故?それじゃ怒ることはないんじゃない?」

 そうなんだけど。にしてもあの態度はないわよね。むかむかむかっ!

「斉藤先輩、いいや、斉藤でいいわよあんな奴。斉藤ったら私が着替えてたのに驚きもせずに眉毛も動かさないで、忘れものだけとって出ていったのよ!仮にも女の子の着替えてる時に入ってきて何を落ち着き払ってんのよ、あれ」

「ふーん。つまりアレ?結香ったら斉藤先輩が反応してくれなかったから怒ってるの?」

 何だか佳子がニヤニヤする。その意味する所を察して私ははっきりと彼女の思い違いを正すことにした。

「違うわよ!私は元々あの人のいかにも世の中斜めから見てますっていう態度が嫌いだって言ったでしょ!いつも冷静ぶって気持ち悪いったらありゃしない。それも表面冷静ぶってるだけならまだ可愛いけど、さっきの事から見るにあれは本物の冷血よ?きっと自分の事以外にはまったく興味のない人種なんだわ」

「うわ、言い切るね」

「言い切るわよ」

 斉藤っていう人はそれなりに名前が知られている。美術部でいくつかの賞を取ってるし、運動会とか文化祭では中心人物の一人として動いている。六月の学園祭でも確か美術部の方で活躍していたはずだ。美男子ってわけじゃないけど、悪い評判は聞かない。

 でも、私はどうしてもあの人は苦手だ。冷たくて無愛想なあの眼を見るだけでどうにも我慢ができない。大看板長としては間違いなく全ブロックの中で一番有能だし、どうせ女子演舞の私は大看板に関る事なんかないから同じ南軍でも仕方ないか、と諦めてたのに…。

「まったく運が悪いったら…」

 こぼす私を佳子は慰めてくれる。

「まあまあ、誰しも苦手な人っているし。同じ南軍なんだからケンカしちゃ駄目だよ?」

「うー…」

 うなる私の頭を佳子がよしよし、と撫でた。ふと気づくと皆が集まってきている。

「あ、もう十分たったんだ。佳子、練習再開」

「ふにゅー、りょーかい」

 私達は立ち上がり、演舞刀を手にして列を組むために武道場の真ん中へと歩いていった。

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