腹が減った。
俺は時計をちらりと見た。長針の位置はさっき見た時とほとんど変わらないように見える。
はーやーくーおーわーれー。
念を込めて教壇を睨みつける。
「以上のA、B、Cの領域の面積を足すとこの図形の総面積が計算できるわけで…」
だが安曇氏はそんな俺の視線はものともせず、淡々と問題を解いていく。
その抑揚のない口調のために『眠りの魔術士』と呼ばれている安曇氏だが、授業自体はとてもわかりやすいし、質問に行けば懇切丁寧に教えてくれるので結構評判はいい。
俺もこの人は好きな方だし、授業も面白いと思うが…しかしとにかく今日は早く終わってほしい。
……まだか。
……あと1分。
……あと20秒…!
ポンポロポロポン
やっと……やっと、チャイムが鳴った!
「では今日はここまでにしましょう」
安曇氏が一礼する。生徒も半分は頭を下げ、残りの半分のそのまた半分くらいは目礼する。ちなみに後の1/4はとっくに頭を限界まで下げきっていて…要するに居眠りしているのだが、まあそんな事はどうでもいい。
俺は教科書とノートをまとめてカバンに放り込むとさっさと立ち上がった。
「ゴッちん、飯食いに行こう。もう死にそうだ」
一直線にゴッちん、中川豪造の席まで行く。
ゴッちんは丁寧にノートをたたみ、教科書を閉じ、さらに筆記具もきれいに筆箱におさめてから立ち上がった。
「お待たせ。行こうか」
弁当派の連中が開けた弁当からうまそうな匂いが教室中に充満する中、ゴッちんは余裕の表情で立ち上がった。
「匡輝、今日はずいぶんとお腹空いてるみたいだね。どうしたの?」
「腹減ってる…って言うか飢餓状態だ。下手に早起きしていつもよりも早く飯を食ったのがまずかった」
「へえ、匡輝にしては珍しい。早起きなんてどうしたの」
「ウチの弟共に襲撃されて…なんでも今日は遠足だとかなんだとかで、昨日の夜から騒がしい事騒がしい事。今日も六時には起きてたんじゃないか?」
「昌己君も真臣君も元気?最近会ってないけど」
「元気どころじゃない、日に日に強力になっていく…。ゴッちん、たまにはあいつらの相手をしてやってくれ」
そんな事を話しながら廊下を出てすぐの右手の階段、中央階段に向かう。
俺達はすぐに下には降りずにそこで立ち止まった。小走りに食堂や売店に向かう生徒の群れから少し外れて窓際に寄る。
「音んとこは授業、何だったっけ」
「確か英語か何かだったよ。すぐ来るんじゃない?」
ゴッちんの言葉が終わらないうちに的音の姿が階段の上に現れた。背が高い方じゃないが、目鼻立ちのはっきりした的音は生徒達の群れの中でもよく目立つ。
的音は俺達に気づくと軽く手を振り、近付いてきた。
「あら、二人とも。どうしたの、お迎えなんて珍しい」
「匡輝が飢えてるんだ。早く何か食べさせないと死んでしまうみたいだよ」
「あははっ、そうなの?」
「ウチのチビ共が騒がしくて早起きさせられた…。とにかく早く行こう」
「そうね、私もお腹減ったし。急ぎましょ」
「何にしようかしら」
郁文学園の学食は食券を出す普通のタイプとカフェテリアタイプが併設されている。
高くなりそうなカフェテリアも選び方によっては実は割安だったりするのだが、ある程度の量が欲しい時はやはり食券型の方が手軽だ。
というわけで俺達は券売機に並んでいた。プリペイドカード式なので進みは早い。
「的音はどうせB定だろ」
「む。その決めつけは気に入らないわ」
軽く睨まれる。だがここ二週間、俺は的音がB定以外のものを頼んだのを見たことがない。
「僕はA定にするけど」
ゴッちんはいつもの通り、A定を選んだ。日替わり定食はAとBの二種類があり、A定はスタンダードなメニューの定番だ。
ちなみに今日は鳥の唐揚げ。蝋細工の唐揚げ定食の見本がいやに美味そうに見える。
「的音はどうするの?」
「うーむ……匡輝の言うとおりって言うのはちょっとしゃくだけど、やっぱりB定ね」
定番のA定に対して、B定と言うのは一ひねり、時には二ひねりくらいした変なメニューが多い。
今日は…
「豆腐のソテー、イタリア風?なんだそりゃ」
B定には見本がない。何しろおかしな献立ばかりだからいちいち見本を作ってはいられないのだろう。
代わりに置いてあるのは厚紙にメニューの名前を手書きで書いただけの漢仕様のラベルだ。
「わからないからこそ挑戦しがいがあると言うもの、笹本さんのお手並み拝見…!」
的音はいやに気合の入った表情で『B定食』のボタンを押す。
「さて、俺は何にするかな」
俺は少しだけ考えた。
無難で美味そうなA定か、『イタリア風』が危険な魅力を放つB定か、それとも…
「なに、A定なの?つまんない選択」
A定のボタンを押した俺を的音が半目で非難する。
「放っとけ。昼飯で冒険してどうする」
「お昼ご飯くらい冒険しなくてどうするのよ。まったく覇気がないんだから」
「お願いします」
「はいよ、A二つに…Bひとぉつ!」
学食のおばちゃんが的音の出した食券を見ていやに嬉しそうな声をあげた。
「おう!B一つ、まかせろ!」
厨房の奥ででかい中華鍋を振り回していた親父さんが元気よく答える。
郁文学園学食のボス、笹本さんだ。
なんでも昔はどこかの有名レストランのシェフだったとか言う話もある。
本当かどうかは知らないが、ここの学食がいやに美味いのは間違いなく笹本さんのおかげだろう。
ただしこの人、創作メニューも大好きだ。B定というのは早い話、笹本さんの趣味である。
「おっ、藤堂さんか。やっぱりB定が一番だよな!」
「はい、危険な香りがいっぱいですから」
「わははっ、今日のは自信作だ。堪能してくれ」
笹本さんは豪快に笑ってオーブンの中からトレイを引きずり出した。
「ね、豪造。B定を一口あげるから代わりに唐揚げ一つちょうだいね」
「う、うん。いいけど」
「豪造は的音に甘すぎる。骨までしゃぶられてからじゃ遅いんだぞ」
「豪造は匡輝と違って優しいのよ」
「今まで隠していたが……俺も優しい男だぞ?」
「じゃあ唐揚げくれる?」
「…冷血漢と呼んでくれていい」
俺はあっさりと前言を撤回した。
「デザイン、それなりに固まった?」
豆腐のソテーを満足げに賞味しながら的音は俺を見た。
「一応魚か武者のどちらかにするとは決めた。後はどちらを選ぶかだな」
「ああ、あの南国の海の中ってやつと鎧武者が思いっきり正面からってやつ?どちらも見栄えはするわよね」
「大看板いっぱいに魚が泳いでいるのはきれいでいいと思うな」
「でも看板は迫力も大事よ。鎧武者が正面からドーンッ!て迫ってくるあの図案もいいんじゃない?」
「ふむ…」
何の話をしているかと言うと、九月の郁文学園大運動会での大看板に何を描くか、という話だ。
運動会の時に鉄骨で階段状の応援席を組み上げるのはよくあることだ。その上に絵を描いたパネルを飾ったりすることも珍しくない。
そのパネルの事を郁文学園では『応援席バックボード』通称『大看板』と言う。
『大』と言うからにはその大きさは普通のものではない。
『大看板』とは18m四方のパネルを横に13枚、縦に3枚、合計39枚つなぎ合わせた巨大なものだ。足元にはさらに18m×90cmの『足隠し』と呼ばれるパネルを13枚並べる。
大看板、足隠しを一枚のキャンバスとして巨大なイラストを描く作業は当然一大事業になる。
これを行うのが『応援席バックボード部』、普通は『看板部』と呼ばれる連中である。各ブロックにおいて希望者を募って構成され、夏休み中…いや、運動会の直前まで看板製作に励む。
看板部の責任者は『大看板長』と呼ばれて20人ほどいる大幹部の一人となる。
そして今年の南軍の大看板長とは、だれあろう、この俺なのだった。
大看板長の仕事はまずは大看板に何を描くかを決める事であり、これがこの所俺がひたすらやっている事だった。
「海の中って普通の看板部員に描けるかしら。水と光の表現ってかなり難しいわよ。看板部員にグラデーションとかが出来ると思う?」
「それは確かに……。でも今までにないデザインではあるんだよね。僕は見てみたいな」
ううむ…俺もどちらのデザインも気に入ってるから迷うな。
幹部会にデザインを提出するのは一週間後だ。それまでにはデザインだけじゃなくて大まかな作業日程から必要な材料、絵の具の量までをある程度算出しておかないといけない。
「ねね、それはそうと」
「なんだ?」
「亜衣、じゃなくて岩神と賢木の話、聞いた?」
岩神亜衣と言うと確か1組の委員長だろう。三つ編み眼鏡の『ザ・委員長』としか言いようのない女の子だが、一昔前の少女漫画のごとく、眼鏡を取ると実は美人と言うことで知られている。
賢木は同じく1組。俺とは1年の頃からの友人だ。軽そうな見かけとやる気のない言動のせいで軽薄な奴と見られがちで、俺も最初はあまり好きな奴じゃなかった。しかし良く知りあってみると、案外義理堅くて気のいい男だった。今ではいい友人だ。
しかしあいつらがどうしたと言うのだ?
「知らん。何の話だ?」
「僕も知らない。岩神さん達がどうしたの?」
「あの二人、付き合ってるんだって」
「ええっ!?」
俺もびっくりだ。そんな話、今まで大知もまったくした事がない。
「そうは言うが、大知が岩神を口説けるとは思えんのだが…」
「逆よ。亜衣が賢木に告白したんだって」
「あの岩神さんが…?」
「ちょっと信じられない話だが……的音が言うならそうなんだろうな」
的音の情報は、特に恋愛系の事に関しては外れた事がない。
「予想外の組合せだ」
「案外つり合いが取れてるのかもしれないよ?」
ゴッちんはそう言うが……男女の仲だけはわからんもんだな。
俺は唐揚げを一つ口に放り込んだ。ここの学食は古い油を無理に使いまわしたりしないからカラリと揚がっていて美味い。
「匡輝、恋人欲しいって思わない?」
「は?」
なんか予想もしない質問が来た。
「だって匡輝ってそういう話がないじゃない。後輩に案外人気あったりするのに」
何の話だ。俺は自慢じゃないが女の子に人気があった事などないぞ?
「今はそれどころじゃないな。まずはデザインを何とかしないと」
「あと一週間で決定だし?」
「ああ。東軍の遠はもう決めたって言ってたしな。俺も急がないといかん」
正直焦る。やる事は本当にいくらでもあるのだ。
「でもこういう時こそ思いもかけない出会いがあるのよ。亜衣だって学園祭の時に告白したらしいわ」
「イベントの時はやっぱりそう言うの多いね」
学園祭は毎年五月に開催される、運動会と並ぶ大イベントだ。今年は『学園の怪人』と呼ばれる正体不明の妨害勢力が現れて、その正体をつきとめるために多数の生徒が参加したこともあって例年よりもさらに大騒ぎになった。
「まあねー。にしてもまさか朔耶が射とくっつくとは思わなかったけど」
「あれは意外だったね。射君って峰芽深さんみたいな人とは絶対合わないと思ってた」
「陽右はあれで真面目な男なんだぞ。見かけで誤解されやすいけどな」
射陽右も一年の頃からの友人の一人で、見栄えがする事でかえって損をしている奴だ。
顔はいいし性格も明るい。人付き合いもいいからモテるわけだが、本人は恋愛事には真面目な方だ。今までは陽右が本気になっても相手が信じてくれなくて失敗してきたらしいが、今回は大丈夫だろう。
「そうなんだ。岩神さんと賢木君もだけど、一見反対っぽい人達のほうが合うのかな」
「俺の眼の前にも見本がいるしな」
「そりゃどう言う意味よ、匡輝」
「さて。多くは語るまい」
俺は賢明にも口を閉ざした。的音に言葉で勝てるとは思っていない。
昼飯を食べ終わって俺達は席を立った。生徒数に対して席の数は不足気味だ。人が少ない時ならいいが、今日みたいに多い日にあまり長居をしているとまわりの視線が厳しい。
「匡輝はこれからどうするの?」
「ゴッちん達はどうするんだ」
「僕達は美術室に行ってみる。康邦先生いるはずだし」
「そうか」
あと昼休みは30分はある。どうするかな。
「俺はコーヒー飲んでくる」
「そう?康邦先生のトコでもいいんじゃない?」
「んー…ちょっとデザインの事を考えたいからな。放課後に行くことにするわ」
「じゃ、また後で」
「匡輝、四時間めをサボっちゃだめだよ」
「へいへい」
俺はゴッちん達に手を振ると今来た道を引き返した。
「あ、斉藤さんだー」
私は佳子の指差す方向をちらりと見た。
南軍…つまり私の所属するブロックの大看板長が自販機の前で財布を出している。
眼があったような気がして慌てて目を逸らす。気のせいだと思うけど、どう言う形であれ、あの人と接点は持ちたくない。
「それがどうしたのよ」
「ん?いや、ただ斉藤さんがいるな〜って言うだけ」
佳子はぽけっと斉藤先輩がいる方向をみていた。
「でもさ、ちょっと格好良くない?」
「…そうかしら。佳子の趣味はまあ…ちょっと変わってるし」
佳子の彼氏の事を知っていればそう思わざるをえない。
「いやいや、創平はともかく。それに逸子もかっこいいって言ってたよ」
「人の好みに口を出す気はないけれど。私はあの人にはあんまり近付きたくないわ」
私はそれ以上斉藤先輩の方は見ずにそう答えた。
「結香って斉藤さんの事、あんまり好きじゃないの?」
「好きじゃないって言うか…」
佳子に隠すこともないか。
「むしろ嫌い」
「どうして?」
「うーん……一番嫌なのはあの眼。いかにも人には興味ありませんって言う感じの眼じゃない?」
「そうかなぁ。確かにあんまり表情変わらない人だとは思うけど」
「なんだか『側によるな』ってオーラが出てるし。私はもっと明るい人が好きだわ」
斉藤先輩と言うのは美術部の副部長をしていて、賞もいくつか取っているという人らしい。大看板にも一年の頃から関ってきていて、去年の運動会が終わる前に今年の大看板長になることが決まっていたという。
その能力は認めるとしても、私はどうしても斉藤先輩が好きになれない。
「でも〜、同じ軍の大幹部なんだから仲良くしないと」
「そりゃ別にケンカしたりはしないわよ」
佳子に心配されるまでもない。
確かに私は二年ながら今年の南軍女子演舞長として大幹部の一員だ。当然接点はある。話をする事もあるだろうけど、私だって苦手な人だからって露骨に避けるほど子供じゃない。
「個人的な話をする事なんてあるわけないし。運動会が終るまでのことよ」
「結香がそんなに嫌う人って珍しいね。今までに斉藤先輩と何かあったの?」
「何もないわよ」
本当だ。斉藤先輩とは今まで話どころか挨拶もしたことはない。
だから『眼が嫌い』とか言うのは本当はこじつけだ。ただ、どうしてなのか……あの人に近付いたら私にとって何かが起こりそうな気がする。
それがいい事なのか悪い事なのかわからないけれど……。
「嫌いってことは興味があるってことだもんねー。もしかしたら仲良くなれるのかもしれないよ」
「そんな事あるわけないでしょう」
内心ギクリとしながらも、私は笑ってアイスティーを飲み干した。
……興味がある、か。
「あ。もうこんな時間。行こうか、佳子」
「えー……もう少し涼んで行こうよぉ」
「だめよ。次の授業は福月なんだから、ちょっとは予習しとかないと」
「うう〜、そうだった…。福すけめぇ……」
快適な空調の効いた食堂を抜けると熱気が押し寄せる。
「暑いよぉ…」
「文句言わない。夏は暑さが花よ」
そう言いながらちらっと周りを見るが、もう斉藤先輩の姿は見えなかった。
眠い。
英語の大塚の授業は、なかなかいいと思う。適確にポイントを押さえているし、抑揚に富んだ話し方は名人芸だ。
だが、例え俺の目の前でヒットラーやチャーチル、またはカエサルが演説をしていたとしても無駄だろう。なにしろ睡魔という悪魔は人間では対抗出来ない存在なのである。対抗出来ないから悪魔なのだ。
さて今ここに一つの問題がある。
郁文学園生にして一介の男児である俺が、今後いかに行動すべきかと言う問題だ。
己の欲望に対して忠実であるべきか、あくまでも耐えるべきか、それとも第三の活路を見出すべきか…。
うむ。眠い時には寝る。
俺は頬杖をつくと静かに目を閉じた。
………………
あっという間に睡魔に飲み込まれる。
「斉藤」
…ん?誰かが呼んでいる…ような気がする。
「斉藤、起きろ」
どうやら俺が当てられているのだろう。陰険姑息な教師のやりそうな事だ。寝ている生徒など無視しておけばいいものを。
「声に出してそう言う事を言うな」
しまった。俺としたことが。
「で。起きたのか、斉藤」
仕方ない。俺は目を開けた。
「なんですか」
「なんですかじゃない。これを訳せ」
「……」
黒板の文字を見る。
「運動会前だから大幹部ともなれば忙しかろうが、寝ていたら」
「この戦争は責任者たちの勘違い・暴走・失敗により勃発した。本来なら第一次世界大戦は起こらずに済んだのだ」
「………そうだ」
「で、もういいですか」
「く…」
「なんだったら次も訳しますが」
「もういい。わかってても眠らずに前を見ていろ」
大塚先生は悔しげに教卓に戻っていった。ううむ……悪い事をしただろうか。なんだかいじめてしまったような……。
ふと教室を見渡すと面白がっている視線が半分、咎める視線が半分……。大塚さん、結構慕われてるな。
ゴッちんの方を見ると、奴め、やれやれと言う表情で首を振りやがった。
出遅れた。
ゴッちん達はもうすでに食事に行っている。置いて行かれたわけじゃなく、俺が先に行ってくれと言ったのだが、どちらにしても昼飯は一人で食べる事になりそうだ。
別にそれは苦ではない。俺は一人でいる方が気楽なタイプで、何か読むものでもあれば一人で食べる方が落ち着いて飯が食えるくらいだ。
にしても…何を食べよう。
郁文学園の昼食には主に四つの選択肢がある。
一つは学食。この場合、食券とカフェテリアが選べる。
二つめはパスタ喫茶『ボーア』。少々高いが美味いパスタを食わせる。
三つめは売店でパンを買う。なかなか捨てたものではなく、手作りの店と契約しているのでそんじょそこらのパン屋よりよっぽど美味い。
四つめは弁当だ。まあこれは当然除外される。
どうするかな…?
ふむ。
昨日はB定食を食べそこねたし、今日こそ挑戦してみるか。
俺は学食に足を向けた。
学食に行くには第二校舎から行くのが普通だ。その第二校舎に行く時に、ここ第一校舎からは渡り廊下を通って行くわけだが、一番学食よりの渡り廊下の入り口は少々おかしい。
なんだか茶室の入り口のごとくに入り口が低くなっているのだ。
別に先生も生徒も謙虚に通るようにと言うわけではなく、単なる設計ミスらしいのだが、なぜかそのまま放ってある。
このでっぱりが床から160cmくらいのところにあるせいで、よくこれに頭をぶつける生徒がいる。
当座の対策としてウレタンマットが貼り付けてあるが、だからといってぶつかる奴が減るわけじゃない。
むしろそのせいでさらに高さが制限されているからなおさらぶつかる奴が増えているんじゃなかろうか。
「きゃっ…!」
今もまさに俺の眼の前で一人の女生徒が思いっきりそのでっぱりに頭をぶつけて悲鳴を上げた。
のみならずウレタンの弾力に跳ね返されて後ろに倒れてくる。
「おっ…と」
まさか避けるわけにもいかず、俺はその娘を受け止めた。
ポコン!
「きゃっ!」
額に衝撃。
またやってしまいました…などと思う間もなく、私の身体は弾力豊かなウレタンマットに跳ねとばされます。
………。
…あら?
不思議です。倒れていません。
それも道理、背中はどなたかの胸板にもたれていますし、肩には男の人の手が置いてあります。
「あ…も、申し訳ございません」
私は失礼にならないように身体を離すと振り向いてまずは頭を下げました。
「気にするな。ケガはないか」
「はい。お気遣いいただき、ありがとうございます」
そう言いながら相手の顔を見ます。
「あら、斉藤先輩でしたの」
「ん?…誰だったか。すまん、俺は人を覚えるのが苦手で」
「いえ、私が一方的に存じているだけですわ。あの私、2-5の彩と申します」
「なるほど、南軍か」
「はい。女子演舞に入る事になっておりますわ」
斉藤先輩は南軍の大看板長です。能力的には申し分なし、と皆が認めてらっしゃいますわね。
『能力的には』と注釈がつくと言うことは、もちろん意味がございます。
無口無表情無愛想。いつも眉間にしわをよせているようなその姿に苦手意識を持つ人も少なくないようですわ。
私の親友、結香もその一人です。
「それにしても見事に飛んだな」
「申し訳ございません、本当に」
「いや、それはいいんだが
…ええと」
「蓮馬、ですわ。蓮の葉の蓮に馬です」
「蓮馬、結構よく転ばないか?」
ギクリ
「…どうしてそれを」
「いや、今の飛ばされ方には何となく年期が入っている感じがあった」
その言い方がおかしくて、思わず吹き出しそうになってしまいます。もちろんそんな無作法はできませんから、ちょっと怒ったフリでごまかします。
「まあ、失礼ですわ。確かに友人にも運動神経について色々と言われるのですけれども」
「そうか、いやすまん。でも運動神経はともかく、ここはあまり通らない方がいい」
「ふふ、気をつけます」
斉藤先輩、好感度+1ですわ。
私は心の中で先輩の評価を改めました。
私は自分で言うのも何ですが、それなりに殿方に人気があります。ですからいわゆる下心には敏感な方です。
ですが、斉藤先輩にはそういうものを感じません。
こう言っては失礼ですが、先輩が下心を欠け片も感じさせずに女性に接することのできるほどの方とは思えません。
女としてまったく下心を持っていただけないのも困るのですが…斉藤先輩は本当にただ私のことを案じていらっしゃる。
この方、実はとても人の良い方ではないでしょうか。
それに…結香が言うほど無表情じゃありませんわ。
私は食堂までの少しの間、斉藤先輩と並んで歩きました。
やっと終わった。
今日は俺が掃除当番だったのでゴッちんは先に美術室に行っている。
「斉藤、看板のデザインはだいたい決まったか?」
坂崎が肩を叩いた。
南軍の軍団長、つまりはボスだな。見かけも性格もさっぱりした気持ちのいい男だ。そうでないと軍団長に選ばれることはないが。
「例の二つのどちらかだ。まだ決めかねてるよ」
「俺はどちらでもOKだから。斉藤の好きな方にしてくれ」
「おう、そう言ってもらえると助かる」
坂崎は看板に関してはとにかく全てを俺にゆだねてくれている。度量のある奴なのだ。
俺もそれに答えなくちゃならん。
俺はカバンを持ちあげた。
「美術室か」
「ああ、ちょっと考えてくる」
「頑張ってくれ」
「サンクス」
坂崎に手を振ると、俺は教室を出た。
「あ、斉藤先輩。こんにちは」
「よ、武藤」
武藤は二年生だ。バスケ部と手芸部に所属していると言うちょっと変わった娘だな。
学園祭で美術部と手芸部が協力した時に知りあった。見かけどおりボーイッシュなタイプで、実際下級生の女の子に人気があるらしい。
「武藤は今から部活か」
「あ、いいえ。ちょっと友達と待ち合わせしてるんです。先輩は美術部ですか?」
「ああ。もう追い込みだし、真面目にやらんとな」
「デザイン案、決まったんですか?」
「それがまだだ。二つまでは絞り込んだんだが、どちらにするか決めかねてるよ」
「どちらでもきっとすごい看板になりますよ。楽しみにしてます」
「おう、まかせてくれ」
「武藤は運動会で何するのか決めたのか?」
「はい、演舞をやります」
ああなるほど。そう言えばそうだった。
「武藤は武東さんとは友達なんだったな」
「はい、親友ですよ。実は今、武東と待ち合わせしてるんですけど。まだ来ないなんておかしいな」
「じゃあ今から演舞の話し合いか」
「はい。取り合えず大まかなテーマとか方向性を話し合おうってことで」
武藤は大きく手を振り回して「頑張ってます!」とアピールした。動作が派手で楽しいやつだ。
「去年の北軍みたいな奴とか」
「あのチアリーダーみたいな奴ですか。武東はあれは嫌がるだろうなぁ…先輩はああいうの好きですか?」
「キライじゃないぞ。何しろ可愛らしいじゃないか」
「スカート短かったですからねぇ。先輩もカメラとか構えてた口ですか?」
「いや、そこまではしなかったが……橋本は携帯で一所懸命に撮ってたけどな。俺は目に焼きつけていただけだ」
「スケベですね」
「おう。男だからな」
武藤はケラケラと笑った。こういう明るさが武藤のいいところだ。
「じゃあまたな」
「あ、はい。デザイン、頑張って下さい」
「おう、ありがと。そっちもな」
俺は武藤に片手を上げて美術室に向かった。
あれは、斉藤先輩…!
私は思わず廊下の影に隠れた。
武藤と待ち合わせしていた社会科資料室の前で武藤と斉藤先輩が立ち話をしている。
(もう、出ていけないじゃない)
どうにもあの先輩は苦手だ。
理由は…はっきり言うとわからない。佳子とかには「あの冷たい目が嫌」とか「無感動な態度が気持ち悪い」とか言ってるけれど、本当はそうじゃないと思う。
とにかくあまり側に寄るべきじゃない人のように感じるのだ。
彩はそれほど悪い人とは思えません、とか言ってたけど…。
あ、行った。
私は斉藤先輩が見えなくなるまで待つ。階段口に入ってからゆっくり五秒数えて…。
「お待たせ」
「結香。何隠れてるんだよ」
バレてた。
「そんなに斉藤先輩が嫌いか?」
「嫌いって言うか。それほど知ってる人じゃないけど…何だか苦手なのよ」
「一度話してみればいいのに。結構いい人だよ」
「……ま、いつかね」
武藤はまだ何か言いたげだったが、それ以上その事について触れはしなかった。
「たまにはカフェテリアも悪くないわね」
金曜日はカフェテリアが全品20円引きだ。そこで俺達は久しぶりにこちらに来ていた。
「この前の豆腐のソテーがあったみたいだな」
俺達が並んだ時にはすでに無くなっていて、ラベルだけが残っていたのだが。
「評判良かったんでしょうね。惜しい事したなー」
「僕も食べたかったかも」
大ライスに白身魚のなんとかソース、サラダにみそ汁で420円。ここの学食の常でボリュームはかなりあるのでこれだけでも男子生徒が腹一杯になるくらいはある。
俺達は色々と話をしながら食事をした。
食べ終わった時点でだいたいあと30分ほど時間があまる。
「私達は図書館に行くけど。匡輝はどうする?」
何でも的音が週末勉強するために参考書を借りだすらしい。無駄なのに。
「…何か余計な事考えたでしょ」
「とんでもございません」
「匡輝が丁寧な口調になる時はつまらない事考えた時よ。…まあいいわ」
お許しを頂いた。ありがたいことだ。
さて俺はどうするかな。まさか二人のミニデートに割り込むほど野暮じゃないし。
俺は倉庫へ足を向けた。
運動会準備期間が今週末から始まる。すると当然機材や衣装、その他諸々の置き場所が必要になるのだが、郁文学園にはそのための専用の建物があるのだ。
その建物は看板倉庫と呼ばれている。
もちろん今はまだ去年のパネルが積んであるだけの倉庫だが、俺はそこで夏休みの大半を過ごす事になるはずだ。たまには見に行くのも悪くない。
「で、お話しと言うのは何でしょう?」
おっと。
俺は反射的に身を引いた。
別にやましい事をしているわけじゃない、ただ倉庫に行くために第一体育館、通称一体の裏を通ろうとしただけなのだが…。
でもこの雰囲気はやはりアレだよな。
告白。
第三者がのこのこ出ていってよい状況でもあるまい。
しかし困った。動くと気配を悟られる恐れがある。ここは石となって告白野郎(多分男からの告白だ)が立ち去ってから姿を消すのがよろしかろう。
「あっ、あの。俺、蓮馬さんにお伝えしたい事がある、いやあります」
「はい。何でしょうか」
ううむ…動転しまくっている男に対して落ち着き払った女の子。ん?蓮馬……って聞いたことのある名前だな。
「どうぞおっしゃって下さいな。私、ちゃんとお返事させていただきますから」
女の子の方はどうやらこういう事には慣れているらしい。しかしこりゃ望み薄だな……いや、余計なお世話だが。
「そ、その…!俺、蓮馬さんのことが…、その、好きです!」
おお、よく言った。
「付き合って下さい、蓮馬さん」
「お気持ちはとても嬉しく思いますわ」
……まあそうだろうな。
「ですけれども、申し訳ございません。私、あなたとお付き合いすることはできませんの」
「やっぱり……ダメですか」
どうやら男の方も最初からこの返事は予想していたらしい。あっさりと引き下がった。
「はい。ですけれどもあなたを嫌いとか言うことではありませんので、誤解なきようお願いしますね」
ううむ…何だかすごい言葉づかいなんだが…どこのお嬢様だ。
「わかりました。すみません、お時間を取らせてしまって」
男の口調までえらく丁寧になってしまっている。
やがて二人は立ち去ったようだった。幸い俺のいる方とは反対側に行ったらしい。
さて、俺もそろそろ行くか。
俺は一体の角を曲がり
うわ!
そこには一人の女生徒が立っていた。のみならずこちらを見てくすりと笑う。
この娘、今告白されていた子か!
「あら、斉藤先輩でしたか」
そこには昨日食堂入り口でウレタンマットに突撃をかましたお嬢様が立っていた。ああ、道理で聞き覚えのある名前だと思った。
む…どうやらちょっと怒ってる?
もしかして俺が覗きだと思ってるのか。それは……さすがにちょっと誤解を解いておかねばなるまい。
「言い分を聞いてくれるか」
俺は蓮馬の目を真正面から見た。蓮馬も物怖じせずに見返してくる。
「うかがいましょう」
「俺は倉庫を見ておきたかっただけだ。その途中でちょっとデリケートなシーンに遭遇したから邪魔しないようにじっとしてた。それだけだ」
「………」
蓮馬がじっと俺を見る。少し驚きだ。
女の子はたいてい俺と目をあわせようとはしない。的音や静花くらいが例外で、クラスの女子でもまともに俺の眼を見る奴はほとんどいないというのに……この娘は目をそらそうとはしない。
「……わかりました」
そのまま数秒。ふと蓮馬の雰囲気が緩んだ。どうやら信用してくれたらしい。
「でも、今の事は口外なさらないで頂けますね」
「というより忘れる。俺は何も聞いてないし見てない」
「はい。よろしくお願いいたします。私はともかく、相手の方の立場もありますし」
言葉だけじゃなくずいぶんと性格もしっかりした娘らしい。
俺は誠意を込めて頷いた。
私は改めて斎藤先輩の印象を+1しました。確かにやや無骨なきらいはありますけれど、微妙な場面で遠慮をするくらいのデリカシーはあるというわけですね。それに不躾に正面から睨んでも気を悪くされたような素振りを見せられませんでしたし……まさか私も斉藤先輩が覗きをするなどと疑っていたわけではございませんが、もし斉藤先輩が噂通りの方でしたらああいう事をされたら怒るのが普通ですわ。
「よう、彩」
「あら睦月。ごきげんよう」
「どこ行ってたんだ?紅茶ヨーグルトでも飲みに行ってた?」
「私はあのような物体を飲む趣味は持ち合わせておりませんわ。そう言えば、斉藤先輩にお会いしましたわよ」
「へえ。どうだった、印象は」
「案外良い方ですよ。少なくとも悪い人ではなさそうですわ」
「だろ?とっつきは悪いけど実は頼りになるいい人なんだ。なんで結香はあんなに嫌うかな」
「不思議ですわね」
本能的に相容れないものを感じているのでしょうか。ですが、「嫌い」ということは興味の裏返しということもありますわね。
美術部には現在全部で24名の部員がいる。別に毎日出席の義務があるわけじゃないが、大半は放課後に顔を出す。他に部員ではないけれど美大を受けるとかの理由で準部員という扱いの生徒が5名いて、一緒に製作をしている。
姉御は正部員も準部員も特に区別はしていないから、準部員は部会への出席義務がないくらいしか表向きの違いはない。そして実際生徒間でも正部員、準部員とも仲は良く、部全体としては良好な関係を保っている部だといえる。
しかしここに問題が一つ。
「なんで私はこう絵が下手かな…」
そう。
部長たる的音の絵は…正直言って上手くはない。
的音自身もそれはわかっていて諦めたようなフリをしているのだが、こうやって時々こぼす所を見るとまだ納得できないらしい。
人一倍絵を描くのが好きだからなおさら、だろう。
目の前に置いた三角錐や立方体をクロッキーでスケッチしていた的音が横を見た。
「あなた達もそう思わない?」
「え、えと」
「藤堂先輩も上達されていると思います〜」
一緒に並んでクロッキーをしていた田中と上月が苦しい笑顔でなんとか誤魔化そうとする。
ちなみにこの二人はすでに的音よりは上手い。
「大丈夫です、僕より上手いですよ」
「山崎は彫刻が上手いから論外よ」
フォローに入った二年生の男子生徒が撃沈される。
「中津川とか茶山に及ばないのは仕方ないけど…」
二人とも美大を目指す準部員だ。なんでも校外の美塾にも通っているらしく、確かに相当上手い。
「匡輝、どうよ」
ついにこちらに来たか。俺はゴッちんと目を見合わせた。
ゴッちんが「仕方ないよ」と言うように首を振る。
「こら!何を二人で納得してるの、ちゃんと答えなさいっ!」
さてどうこの姫様をお鎮めするべきか…。
「上手いとはとても言えん」
正直に告げる。
「ううっ…!言いにくい事をズバリと言うわね、匡輝!」
「ごまかしてどうなるもんでもあるまい。ほれ、ここの線は歪んでるし、こちらの円柱は傾いてる。こういう細かい所が積み重なると下手にみえるんだ」
「くう」
「ま、それがどうしたと俺は思うけどな」
「へ?」
「人より円柱が上手く描けたからどうだってんだ。絵を描くのが好きならそれでいいじゃねえか」
「よく言った」
姉御が教官室から顔を出した。
「それにしてもアレだな、藤堂は相変わらずデッサンは下手だな」
ああ…せっかくフォローしたのに。
「しかしお前はセンスがいい」
「はい?」
「前から思ってたんだが、藤堂は構図が上手い。ほれ、この三角錐の配置なんてなかなか出来んぞ」
「そ、そうですか?」
「斉藤はデッサン力は確かだが、構図の力では藤堂にまだ及ばん。自分でも気づいてるだろ?」
「確かに…」
そう。的音の描く絵はどれもバランスがいい。おさまるべき所におさまるべき物がちょうどよい大きさで描かれている。特に静物画や風景画の構図は的音にはかなわない。
「本当?匡輝」
「こんな事で嘘は言わん。正直言えば俺は的音が羨ましくなる時がある」
「なんで?」
「技術なんて磨けば上達するからな。センスはなかなかそうはいかん」
「そう言うこと。センスだって磨けるけどね、最初から持ってるのと持ってないのじゃかなり違うからね」
「アンタらも藤堂の構図は見習いな。デッサンにも構図は大切だからね」
「はい」
後輩たちがこくりと頷く。
「ただしデッサン力は見習わない事。それは副部長がお手本だからね」
「もう、先生!」
的音がちょっと頬を赤くして抗議した。
美術室は郁文学園の他の特別教室と同じく冷暖房装置が備えられている。
姉御は暑いのも寒いのも平気、と言う人であまり空調とかを好まない人だが、それでも弱冷房くらいしておかないと部員が逃げる。
郁文学園では弱冷房と言えば29度で通常冷房が27度である。
理由は知らない。
電車では弱冷房が28度、通常が26度だとかいやいや弱が26度で普通は24度だとかあるらしいが、まあ何かの理由があるんだろう。
「匡輝、一段落ついた?」
「おう。武者の方はこんな感じ」
俺は清書した基本案を見せた。
「へえ…なかなか派手でいいんじゃない?」
「色をつけてみないとなんとも言えないけどな。とりあえずコピー取って、それに色を塗ってみる」
横に三枚、B4用紙を縦にして張り合わせた台紙に清書した鎧武者。もちろん精緻な大鎧をそのまま描くわけにもいかないのである程度簡略化し、さらにステンドグラス風に塗り分けて間を黒で区切るというデザインだ。
「ステンドグラス風ってどういう感じになるのかな」
「そればっかりは塗ってみないとわからん。一応試験的に描いた奴はなかなかだったけど」
「もう一つは?」
「魚の方か」
俺はもう一枚のデザイン案を取り出した。
「まだ清書はしてないんだね」
「ああ。こちらもステンドグラスじゃつまらんし…かと言ってリアルにすると描くのが大変だしな」
正直行き詰まっている。
「ま、ちょっと休憩するか」
俺は立ち上がると伸びをした。そう言えば咽が渇いた。
教官室の扉はいつも開きっぱなしだ。姉御がいるのにここが閉っている時は本当に入ってほしくない時。だから開いている時は自由に入っていい。
「コーヒーいいっすか」
「おう、ちょうどいいや。アタシのも頼むよ」
「へい、姉御」
「姉御って言うな」
怒られながらインスタントコーヒーの瓶を手に取る。
これは部の予算で買った物なので使うのに遠慮はいらない。カップは各自で持ちよっている。
「あ、私達もコーヒー飲んでいいですか〜」
「別に許可を取る必要はないぞ。上月のカップはこれだよな」
「あ、はい!あの、私が入れますよ〜」
「いいって。どうせついでなんだから」
「じゃあ手伝わせて下さい」
「私も手伝います」
田中も上月と一緒になって砂糖を取り出したりし始める。まあ手伝ってくれるのはいいけど、別に一人でもすぐに出来る事なんだがな。俺は不器用に見えるんだろうか。
ヤカンに幾らか水を入れてコンロの上に乗せ、火をつける。冬なら魔法瓶に湯が入っていることが多いが、夏は必要な時に湯を沸かすことになっているのだ。
すぐにお湯は沸く。インスタントを適量入れたカップに湯を1/3ほど注ぎ、後は氷をたっぷり。砂糖などは各自のお好み。ちなみに俺は何も入れない。
「今日は藤堂先輩どうしたんですか〜」
「ああ、何か日楽の友達に頼まれ事とかって言ってたよ」
的音はあれで琴が上手く、日本楽器演奏部(日楽)に時々指導しに行っている。
「中川先輩寂しいですね〜」
「あはは、そうだね」
ゴッちんはこういう時、まったく照れたりごまかしたりしない。
「羨ましいな、中川先輩達は」
「どうして?」
「長い事うまく行ってるんですもん。仲良くていいな〜」
何で上月達は俺の方を見るんだろう。
「お前達も頑張らんと、なかなか気づいてもらえんぞ」
姉御が笑う。
「それなりにアピールしてるつもりなんですよ?」
「でも全然本気にしてもらえないんです〜」
ううむ…何だか俺に関する話題のような、そうでないような。
「斉藤には色気づいた話しがないな、本当に」
「だから言ってるでしょう、俺はそういう柄じゃないんですって」
「斉藤の場合は興味ないフリしてるから縁がなくなるんだよ。ちっとは彼女欲しそうな顔をすればいいんだ」
「そんなフリをしたつもりはないんですがね」
的音といい姉御といい、女はどうしてそういう話が好きなんだろう。
「大看板長の斉藤だ」
俺は三体に集合した南軍の生徒たちの前に立った。
ゴッちんが横に立って、大きく引き伸ばした去年の南軍の大看板の写真を頭上に上げる。
「大看板と言うのは一年はあまり知らんだろうが、応援席の上に横23m、縦5mのでかいパネルを描く部門だ」
俺はゴッちんの掲げる写真パネルを指差す。
「作業期間は夏休み初めから運動会終了まで。毎日出てきてもらえると嬉しいが、基本的には自由参加だ。他の部門との掛け持ちも許可する」
俺は生徒たちを見渡した。興味のありそうなやつらは……二割か三割かな。まあそんなもんだ。
「絵を描くのが主な仕事になるが、別に絵が下手でもかまわん。普通の絵を描く技術なんて必要ないからな。絵の具を塗る事が出来れば充分だ」
あちこちで隣と話しはじめる奴らが出てくる。少しは興味を持っているということだ。
「作業期間は長いが、体力的にはそれほどキツくない。それに作る物が大きいし、看板が出来上がった後の充実感は相当なものだ。きちんと写真とかビデオにも残るしな」
よし、言うことは全部言ったよな。まあちょっと嘘も混じってるがそれはそれだ。
「参加してくれる奴、詳しく話を聞きたい奴は結成式の後、3-11の教室に集合してくれ。その後で参加したいと言う場合は俺に直接言ってくれればいいし、夏休み中に一日二日だけでも手伝ってくれるという奴も大歓迎だ。以上」
「大看板希望者、説明を聞きたい奴は3-11に集合ー!」
結成式が終わって解散しはじめる生徒たちに大声で通知する。応コンや応援団、演舞などもそれぞれ大声で勧誘している。
何しろここで人員を確保できないとかなり大変な事になるのだ。
運動会は全員参加で、さらにどこかの部門に参加していないといけない。受験だからとか面倒だからと言って参加したくない、と言う奴もいるが、それでも形だけはどこかに入らなくてはならないのだ。
大看板と応コンはそういう奴らが多いから、なおさら多めに集めておかないといけない。
俺は三回叫ぶとゴッちんを探した。
あれ?ゴッちんはどこに行った?
「中川なら何人か希望者を連れて先に行ってたぞ」
「そうなのか」
坂崎に言われて俺は三体を出た。
「今年は人数多いとええんじゃけど」
橋本が腕組みをしながら俺を見た。
「何人くるかのう。最低一日十人はいるんじゃが」
「去年の北軍は多かったよな」
「ありゃあ吉田さんの人徳じゃ。俺の東軍は寂しかったけん」
「つまり今年も少なかったらお前の人徳が問われるわけだ」
「ぐっ…痛いところをつくのう、斉藤」
橋本はそう言いながら俺の腹を軽くこずいた。
「本当の事を言っただけだ」
「人徳に関してはお前も人のことは言えんのじゃ、わかっとるか」
「むう。それを言われると辛いのだが」
特に俺は人徳があるとはお世辞にも言えんからな…。
「今年は女子演舞は選抜があるとか言っとったのう」
「そりゃ羨ましい。そんなに希望者が多いのか」
「ほら、武東が女子演舞長じゃからその繋がりで。なんだか30人超えたとか言っとった」
「人気だな」
少し意外だが橋本はなにを言うとる、という目で俺を見た。
「当たり前じゃ。可愛かったじゃろ」
「……まあ」
「何がまあ、じゃ。このムッツリが」
「誰がムッツリだ」
失礼な奴だ。……ほんのちょっと横目で眺めただけじゃねえか。俺だって可愛い娘は嫌いじゃない。
しかし綺麗な娘は必ずしも同性に好かれるとは限らない。女にもてる男が男にも人気があるとは限らないのと同じだ。男にも女にも人気のある武東という娘は、まさしく人望があると言えるだろう。
「ほんじゃな、斉藤」
「おう。またな」
俺と橋本は第三校舎の下で別れる。橋本は応コンだから1-5に行くのだ。
俺は何人来てくれているかと内心ドキドキしながら階段を上がっていった。
和泉市の西側、手柄山町に俺の家はある。五階建のマンション、『メゾン・カネヒラ』の301号室がそれだ。
築18年という新しいとは言えない建物だが、作りは悪くない。壁も厚いし歪みもない。さすがに最近は水回りとかが詰まり気味で、お袋様が「改装したい」と主張しているが…。間取りは4LDK。ここに両親と子供三人…つまり俺と双子の弟二人が住んでいる。
「兄ちゃん、遊ぼーっ!」
「遊ぼーっ!」
部屋で本を読んでいた俺を弟共が襲撃する。
「兄ちゃんは本を読みたいのだが」
「休みの日に本ばっかり読んでるの、ダメー」
「ダメー」
昌己と真臣。一卵性双生児だけあって見かけがそっくりの二人だが、性格は実は結構違う。
昌己はガキ大将タイプで何事も率先してやりたがる。反面やや考える事がおろそかになりがちだ。
真臣はどちらかというと慎重な方で、昌己の後についていくようなところがある。だが子供なりに慎重で、いざとなると昌己は真臣の判断に逆らうことがない。
ただしどちらも休みとなればこうやって俺にまとわりついてくるところは同じだ。もちろん可愛い弟達だから俺だってかまってやりたいが、この所ろくに本を読む暇もなかったから、たまにはゆっくり…。
「公園行こう、公園。石垣登りするんだ!」
「兄ちゃん来てくれないとパパがダメって言ったから」
「手柄山公園か」
「うん!」
こいつらの言っている『公園』とは早い話昔の城塞跡だ。ここらへんには手柄山城という小さな山城があったのだが、今では石垣が残っているだけ。ただ、その石垣を登る事が子供達にとっては格好の小冒険だった。
かくいう俺も小さい頃はよく登ってはお袋を心配させていたものだ。しかし公園か。このくそ暑いのに…。
仕方ないか。
俺は立ち上がった。
「公園行くの?」
「おう。玄関で待ってろ、着替えてすぐ行くから」
「うん、わかった」
二人を先に玄関に行かせる。
何しろ今はTシャツにトランクスだ。
俺は普段着に使っている軍用ズボンに足を通すと玄関へと向かった。
「兄ちゃ〜ん、見ててね」
「僕も、登るよ!」
「おう。落ちるなよ」
「兄ちゃんも登らないの?」
「無茶言うな。それに俺が登ってたらお前達が落ちた時に助ける奴がいないだろう」
「落ちないもーん!」
「落ちないよー」
双子は揃って言うと石垣に手をかけた。
おおー…猿だな、まるで。
するすると双子が石垣に登って行く。古い石垣だからあちこち隙間だらけになっており、登る手掛かり足がかりに不足はない。またさすがに元は軍用なだけに作りはしっかりしていて、築数百年を経ても石がぽこりと外れたりすることはまずないのは俺も知っている。
まあそうは言っても落ちれば大怪我だ。俺も今でこそそう思えるようになったけど、小さい頃の俺をお守していたお袋とかは大変だったろうなぁ。
とは言ってもこういう少々危ない遊びを止めるつもりはない。子供なんて危ないくらいの方が好きだし、いちいち危ないからといって遊びをやめさせてたら危険に対する能力が落ちるだけだ。
大人としてはいざという時はできる限りフォローは出来るように配慮しつつ、子供のやりたいようにさせておくのが度量というものだろう。
「兄ちゃーん、登ったーっ!」
「僕もーっ!」
早くも石垣を登り切った双子が上から叫ぶ。
「おーう、じゃあ向こう側で待ってるから降りてこい!」
「わかったー」
ひょい、と頭が引っ込む。
俺は反対側の石垣の方へと歩いていった。
的音が怒っている。
「どうせなら土曜日に終業式をすればよかったのに」
「ほんとにな」
頷きあう俺達。だが常識人で良識のあるゴッちんは損な役回りだ。
「でも結団式もあったし、仕方ないよ」
などと言わなくてもわかっていることを言って俺と的音から睨まれ、縮こまる。
「その前の授業を削って終業式をすればちょうど良かったんだ」
「このためだけに出てくるなんて不毛だわ」
火曜日、俺達はほとんど終業式のためだけに登校していた。昨日、一昨日が連休だったからなおさら文句も出ようと言うものだ。
「まあとにかくこれで夏休み。いよいよ運動会本番だな」
「明日が大幹会議で明後日が板とか紙の搬入だっけ?」
「そう。明後日には運営の方に塗料の発注もしないとな」
外部から購入する物はいろいろあるが、大物はやはり応コンと看板だ。応コンは壊れたり古くなったりした座板を補修したり新造したりするためにかなりの量の板や釘、工具を購入するし、大看板も古くなったパネルの補修・新造のために相当量の板を購入する。また、紙やノリも大量に必要だ。
これらのものをそれぞれの軍が購入するのは手間の無駄なので、運営大看板が必要量を事前に調査してまとめて購入してくれており、それを各軍で分けることになっている。
それが明後日に予定されていた。今のところ雨も降らないようだから予定通りになるだろう。
塗料の購入も同じ方法だが、これは各軍の絵柄が決まらないとどの色をどのくらい購入していいかわからないため、明日の大幹会議で大看板の絵柄が決定してから注文する事になっている。
どうせ塗料が必要になるのは八月に入ってからだから充分に間に合うのだ。
「鎧武者よね」
「ああ」
俺は昨日双子たちと城跡で遊びながら決めていた。
やはり武者だ。
海もいいが、やはり水の表現は難しい。幸い看板には必要最小限の人数は来てくれたが、絵の心得のある奴はあまりいない。あの大きなパネルにグラデーションをかけながら海中を表現するのはちょっと無理だろう。
「匡輝、これからどうする?」
そうだな…。そろそろ昼時だが。
帰って最後の仕上げをするか、いつも通り美術室に行くか。どちらでもいいんだが。
「美術室に行くけど、まずは飯を食う」
「僕もそうしようかな」
「じゃ、私も」
俺達はそろって学食へと向かった。
学食は明日から夏季休業に入る。
とは言っても実際には運動会の準備で大半の学生は登校する。学食が完全に休業してしまっては生徒が困るから、午前11時から午後2時まで、食券形式の方だけは営業することになっていた。
ちなみにパスタ喫茶『ボーア』も同様の営業体勢で、売店も開いている。
さて、的音はいつものようにB定食。
ゴッちんは今日はオムライス定食に挑戦し、俺はカツ丼セットを頼んでいた。
ある程度食事が済んだ時、ふと的音が俺を見た。
「匡輝、今デザインの紙、持ってる?」
「ああ」
そりゃ大切なものだから常に持ち歩いている。というかこの時期、大幹部はみんな分厚いファイルを四六時中持ち歩いているのが普通だ。
「色付けたんでしょ、見せて」
「いいけど」
俺はデザイン案の紙を取り出した。
ゴッちんが隣のテーブルを片手で引き寄せてくれたのでその上に紙を置く。さすがに終業式の後はそんなに人は多くないから特に邪魔にもならない。
B4用紙三枚分の大きさにステンドグラス風に色分けされたデザイン案が机の上に広がる。
「ほほう…これは凄いわね」
「綺麗だね、匡輝」
的音とゴッちんが褒めてくれる。
「結構塗り分けるのに神経を使うとは思うけどな」
そう言いながらも俺は笑みが溢れるのを抑えきれなかった。やっぱり褒められると嬉しいもんな。
「あ、ほら。斉藤先輩の大看板だって」
佳子が私の肩ごしにそちらを見た。
「うわっ、凄いよアレ」
武藤まで身を乗り出すようにして見ている。
「そんなに焦らなくても逃げやしないわよ」
私はあえて冷淡に言うが、実は気になってはいる。
「鎧武者だね、アレ。すごい迫力だけど綺麗だな」
「色分けしてるんだね。黒の縁どりもいいなー」
も…もう…そんなに言われると見たくなるじゃない。
私はちらり、と振り向いた。
私達の座っている席の後、テーブル二つ分くらい離れた所に斉藤先輩達がいて、大看板のデザイン案を広げている。
斉藤先輩はこちらに背を向けているので目が合う心配はない。
一瞬、その絵を目に焼きつけて前を向く。
「ほら、綺麗でしょ〜」
「…そうね」
なるべくそっけなく答えるが、胸はドキドキと高鳴っていた。
とても美しかった。
真っ正面から迫る鎧武者。その鎧は色とりどりに塗り分けられて、細かく黒の縁どりがしてある。そして左右にもこちらはやや小さめに騎馬武者が疾走する。
多分正面の武者も馬に乗っているのだろうけれど、その馬はあえて描かれていない。あくまでも武者の迫力と美麗さを中心に据えた絵柄だ。
背景は一面の荒野。そして空は蒼穹。
一目見たら忘れられない大看板がそこにあった。
「あーあ、たたんじゃった」
「ほら、結香。もう一度見せてもらおうよ」
「い、嫌よ。私はあの人苦手だって言ってるでしょ」
「まったく…何が嫌なんだよ、斉藤先輩の」
「それほど嫌な人だとは思わないけどな〜」
「……」
とにかくあまり近付きたくないんだってば。
「そう言えば彩も斉藤先輩とお話ししたって言ってたな〜」
「ああ、なんだかそんな事言ってたな」
「なんだかね、転びそうになったのを助けてもらったんだって」
「あいつ、また転んだのか」
「殿方の胸の中に倒れ込んでしまいましたわ、きゃ〜、なんて言ってた」
「……猫被りだ」
「それも特大ね」
あの時代錯誤なまでのお嬢様ぶりの裏にはなかなか油断のならない悪魔が潜んでいるのだ。
たいていの男はそれに気づかないのが不思議だけれど……。
斉藤先輩はどうなんだろう。なぜかそう思った。
「あ、行ってしまった」
「あらら〜。結香、大看板の作業が始まったら見に行こうね」
「い・か・な・い!」
人の山田様が見てる
凉武装商隊 since 1998/5/19 (counter set:2004/4/18)