「で、またですか、笈阪先輩」
「そんな言い方するなよー」
笈阪先輩はニヤニヤしながら私の肩に手を伸ばした。露骨に避けるが、彼は気にした様子もない。本当に面の皮の厚い人だ。
「いつまでも意地はってないでさぁ。なぁ、今度の日曜デートしよう。映画?レジャーランド?どこでもいいよぉ。あ、さすがにTDLとかは無理だけどぉ」
ははは、と軽薄に笑いながらジリジリと近寄って来る笈阪先輩とソロソロと後退する私。ああ、なんでこの貴重な休憩時間に体育館裏でこんな男と二人っきりにならなきゃいけないのよ…!
私は東軍団長、笈阪先輩の優男面を睨みつけた。
笈阪先輩というのはまあ見ての通り見栄えがいいのと軽いノリで女の子に人気のある男だ。本人もそれをよくわかっていて色んな女の子に手を出しているらしい。好きで付き合っているんなら私がどうこう言う話じゃないけれど、その笈阪先輩が何故か私を気にいったらしく最近よく声をかけてくるのだ。
私は自分で言うのもなんだけどそれなりにもてる。だけど今のところ恋愛とかにはあまり興味はない。薙刀の修行でいっぱいいっぱいでそれどころじゃなかったし、そこらのどうでもいい男の子と付き合う暇があったらあの完璧超人の姉に追いつくための努力をする。
姉は私の最大のライバルにして憧れ、目標だ。清く強く美しく。彼女に追いつき追い越すためには少なくともこんな男に関っている暇はない。
「ですから、そんな時間はありません。日曜日も女子演舞の練習ですし、先輩だって東軍の方でいくらでも用事があるでしょう」
「一日くらい大丈夫だって。運動会なんて適当に済ませて遊びにいく方が楽しいじゃない?結香だって暑い中で演舞刀振り回してるよりボクとプールの方がいいだろぉ?」
冗談じゃない。アンタと話している暇があったらセミに言葉を教えている方がよっぽどマシ。
「先輩がどういうつもりで運動会に参加していようとご勝手ですけど。私は女子演舞に真剣に取り組んでいます。もう練習に戻らなくちゃいけません。失礼します」
一気に言うと私は身をひるがえした。
「まっ、待てよ!」
腕をつかまれる。
「何ですか、離して下さい」
「結香、ボクにそんな冷たい態度とらなくたっていいじゃないかぁ。もう少し素直になった方が可愛いぞ?」
「……!」
もう限界。
「どうやらはっきりと言った方がいいようですね。いいですか笈阪先輩。私はあなたに何の興味も持っていません。デートする気も付き合う気もありませんし、結香と呼び捨てにされる覚えもありません。これ以上話しかけないで下さい、わかりましたか?」
笈阪先輩の顔がさっと赤くなり、ついで青くなった。なんだかブルブル震えている。
「ボクに…ボクにそんな口の聞き方するのかい?」
「こうでも言わないと理解していただけないと思いましたから。それに嘘偽りなく正直な気持ちですよ」
「よ、よくも…この、このぉ!!」
不意打ちだった。まさか手までは上げまいと思っていた私が甘かったのか、空手部でもある笈阪先輩は思いっきり正拳を私の顔面に突き込んできた!
男の怒鳴り声が聞こえてきたので俺は体育館裏に足を向けた。この時期みんな浮き足立っているのでケンカ沙汰が多いのだ。俺だってそう言うことでは人のことを言えた柄じゃないが、こういう時に暴力沙汰なんか起こされては一応仮にも大幹部の一人として迷惑する。少なくとも様子を見て、場合によっては止めるなりなんなりする義務があるだろう。
…って、一人は女か。痴話喧嘩?
そこまで考えてから俺は自分の考えを否定した。
男は知っている。東軍の団長で成績優秀ついでに空手二段の優男、笈阪だ。当然もてる男だからいつも女の子と一緒にいる。
で、今一緒にいる女の子は…なんと武東だった。
二人が付き合っているとか言う話はまったく聞いたことがない。そんな事があればそう言う話が大好きな的音が見逃しているはずがないもんな。
どうも見ていると笈阪が武東に言い寄っているのに武東が冷たくあしらっているような雰囲気だ。と、笈阪が立ち去ろうとした武東の腕を力任せにつかんだ。そのまま振り向かせる。
…余計な御節介かもしれないが、ちょっと行ってみよう。他人がいるとわかればあんな乱暴な真似もしなくなるだろう。そう思って俺は一歩踏み出した。
「嘘偽りなく正直な気持ちですよ」
「よ、よくも…この、このぉ!!」
武東が何か言った瞬間、笈阪の腕がぐうっと引かれた…って、!!!
何でそんなことをしたのかと後で武東にもゴッちんにも的音にも聞かれたが、そんな事はわからない。ただ空手もやっている男が女の子に本気で殴りかかっているのを見て見ぬふりが出来る人間は、少なくとも俺の基準では許せない部類に入る、ただそれだけだったんじゃないだろうか。要するに武東だから、じゃなくて、女の子が殴られそうになっているのをほっとけなかったんだ。
だけど俺には止める技量なんかなかったから、出来る事と言えば笈阪の拳と武東の顔との間に割って入るしかなく。
ゴクゥッ!!
衝撃はかなりのものだった。顔面真っ正面で受けることはなんとか回避したけれど、笈阪の正拳は俺の頬をしっかりと捉え、結果として俺は武東を巻き込んで吹き飛んだ。
「きゃああっ!?」
「グゥッッ!」
何が何だかわからないままに地面に転がる。背後に武東がいることはわかっていたから何とか上に乗らないように身体をひねりながら倒れたつもりだったが、実際どうなった事やら。
「…な、なんだよお前!いきなり出てくるんじゃねぇよ!」
笈阪が何か叫んでいる。
「う、うわぁ…大丈夫ですか?」
武東が俺の肩に手をかけて…どうやら俺の下敷きにはならずにすんだらしい…何故か動きを止めた。
「斉藤…先輩?」
すごく意外そうな声だが、まあそれはどうでもいい。
「クゥ…いてて。ああ、割り込んできて悪かった」
「…斉藤?」
笈阪も『何でお前がこんな所に』という顔で俺を見ている。まあ当たり前か。
「笈阪、お前も東軍団長だろ。別にお前達の関係に口だすつもりはないが、さすがに暴力沙汰は困る。ここはまあ殴られた俺の顔を立てて事をおさめちゃくれんか」
「…何言ってるんだお前。人の大事な話の最中に入ってきやがって、ストーカー野郎かお前は。関係ないんだからさっさとどっか行ってろ」
笈阪は高圧的な口調で俺を見下ろした。だがそれが虚勢に過ぎないのは震えている拳やら引きつっている口元で丸判りだ。
「いいえ、もう話しは終わりです。斉藤先輩、保健室に行きましょう。付き添います」
武東が俺の腕を取って引き起こしてくれた。正直まともに正拳をくらってクラクラしていたから助かる。…って格好わるいな、俺。
「おい、まだ話は終わってないぞ、行くな、結香」
「私からは何の話しもないと申し上げたはずです。それから名前で呼ばないで下さい。さようなら、笈阪先輩」
そう言うと武東は俺の腕を取ったまま笈阪をその場に残して歩きだした。俺も引かれるままに歩きだす。
後ろで「覚えてろ…!」とか言う声が聞こえたような気がしたが、武東も俺も振り向きはしなかった。
「…あの、すみませんでした」
保健室まで歩きながら私はとりあえず斉藤…いや、斉藤先輩に謝った。いやな男だけど、助けてもらったことは間違いない。嫌いだからと言って筋を通さないのは無礼だ。
だが斉藤先輩はあいかわらずの無表情で首を振った。
「謝ってもらうようなことはしていない。気にしないでくれ」
斉藤先輩はちょっとまだ足元が覚束ない。さすがに笈阪の正拳をまともにくらえばひ弱な美術部員なんて…そう思って私は腕をとって先輩を支えた。だが、意外とたくましい腕をしているのに気づいてちょっと驚く。美術部で絵ばっかり描いている生っ白い人かと思っていたけど実は腕力は結構ありそうだ。
「にしても災難だったな、武東」
「え?」
「笈阪とどう言う話をしていたのかは知らないけど、あいつもいきなり女を殴らなくてもいいのにな。結構痛かったぞ、あれ」
「すみません」
「だから、謝らなくていいって」
先輩は本当にそう思っているらしく、困った顔で私を見た。あれ、この人こう言う顔もできるんだ。いつも無表情だから嫌いだったけど…。
「じゃあ…ありがとうございました」
「ああ、そう言ってもらえる方がうれしいな」
今度はにっこりと笑った。
不意打ち。
今の顔はちょっと反則よ。いつも無表情で眉の一つも動かさない人がこういう笑顔をするなんて、少し、いやかなり動揺するじゃない!
何故か火照る頬を意思の力で押さえつける。
「あ、あのですね」
押さえきれない動揺を隠すために、私はとにかく口を動かした。
「今のは一方的に笈阪先輩が言い寄ってきてたんです。私、別に笈阪先輩と付き合っているとかそういうわけじゃないんです」
って、何を私は言訳してるんだろう。斉藤先輩が今のことをどう思ったって関係ないのに。
「あー、あいつは可愛い女の子と見れば誰彼構わずって言う奴だからな。にしても断られたからって暴力までふるう奴だとは思ってなかったが」
「可愛い…って」
いや、反応すべきはそこじゃないでしょ!もう、どうしたのよ私は…!
「その、笈阪先輩が怒ったのは多分、私の口の悪さにも原因があると思うんです。昔から私、言いたいことズバズバ言い過ぎるって友達からも言われてて」
「だからって言って女の子を殴っていいと言うことはない。まあ笈阪のことはいいが、今後トラブルになりそうか?何だったらこちらからもそれなりに手を回すが」
「い、いえ。そこまでしていただくことはありません。また何か言われたらちゃんと断ります」
斉藤先輩は「まあ武東は強そうだもんな」と笑った。その後で真剣な顔になる。
「でも、あまり人気のないところで二人きりになったりしない方がいいぞ」
「は…はい」
何でそんなに優しいのよ、今日に限って!私この人の事苦手なのに、どちらかと言うと嫌いな方なのに、なんだか頼りがいがあって良い人って思っちゃいそうじゃないの。
「何かあったら運動会全体に関りかねないしな」
ムッ…。
何、その言い方。一気に気持ちが冷えた。
「つまり斉藤先輩は私と笈阪先輩の間で何か不祥事が起こったら皆の迷惑になるから自重しろ、とおっしゃっているのですね。確かにその通りです。今後気をつけます」
支えていた腕を離して距離を取る。やっぱりこの男はただの冷血漢だ。要するにくだらないトラブルを起こされては迷惑だと言ってるわけ。少し気を許しかけた自分が許せない。
「今日は私の代わりに殴られてしまってご迷惑をおかけしました。改めて謝罪いたします。それではもう保健室はすぐそこですし、私も練習に戻らなくてはなりませんから。失礼し…」
そこまで言った時、斉藤先輩がいきなり深々と頭を下げた。
「すまん!」
「…え、え?」
思いがけない展開にうろたえる私。
「どうも俺は物言いが悪い。つまりだな、その…俺は正直にモノが言えない人間なんだ。つい突き放したような言い方をしてしまう。良く友人からも注意されるんだ、お前の言い方は距離を置きすぎるって」
斉藤先輩は頭を下げたまま、一気にしゃべる。
「つまりだな、本当は運動会の事とか他の連中の事とかはどうでもいいんだ。武東は女の子なんだから、ああいう男と二人っきりになるのは避けた方がいいって、ただそれだけ言いたかったんだ。代わりに殴られたからどうとか言うことじゃなくて、俺は女の子に暴力をふるう奴は嫌いだし、ああもう俺は何を言ってるかな、ゴッちんからとにかく言うべき事を言えって言われたのに、じゃなくて…」
「……わかりましたから、頭を上げて下さい」
何となくわかったような気がする。
この人、かなり不器用なんだ。ついでに照れ屋。表情のこともそうだけど、素直に話せばいいのについ誤魔化しちゃうタイプの人で、いつも誤解される方じゃないのかな。
「私も悪かったんです。なんでかイライラしちゃって、斉藤先輩は私を助けてくれたんだから私が怒るのはおかしいですよね。失礼な事言っちゃってごめんなさい」
私もペコリ、と頭を下げる。
「ん…、いや、悪いのは俺だし。そうだ、この前も本当にすまなかった。あれは俺が一方的に悪かったから、武東が怒るのも当たり前だ」
この前というとやはりあの覗きの事だろう。
「いいえ、あの時は私も言い過ぎました。斉藤先輩はワザとじゃなかったのに」
「ワザとじゃなかったけどやった事は同じだ」
表情はほとんど変わっていないけれど、顔が赤い。これは…。
「…もしかして、あの時、動揺してました?」
「当たり前だろ。自分でも何してたか覚えてない。身体が事前の予定に沿って勝手に動いてただけだ」
「ぷっ…ぷふふふっ!」
思わず吹き出してしまう。そうか、そうだったのね。なんだ、眉ひとつ動かさないんじゃなくて動かせなかったんだ。
「あははははは、くくっ、くる、苦しい、あはははははっ」
「…いや、そんなに笑わなくてもいいだろ。俺はそんなに器用な方じゃないんだよ」
「そ、そうなんですね。ふふっ」
いや、人には思わぬ側面があるものだ。なぜかとても嬉しくなって私はくすくすと笑い続けた。
「あー、楽しそうな所悪いんだけど」
「ひっ!?」
横から女の人の声がいきなり聞こえてきて、私はビクッと身体を硬直させた。
「保健室の前で何やってるのかなぁ」
「高峰先生…あ、あの」
「オヤ、匡輝じゃない。どしたの、その顔」
「あ、すんません、緑さん。ちょっと突き出てた棒に当たってしまって」
「どんくさい子ねぇ。よそ見でもしてたんでしょ、いつも前を見て歩きなさいって言ってるのに」
そう言いながらいやに親しそうな雰囲気で斉藤先輩の頬をのぞきこむのは、保険医の高峰先生。30すぎだけどかなりの美人で、男子生徒にも女子生徒にも人気がある人だ。
「あら、アンタ武東じゃないの。どしたの、匡輝と一緒なんて」
「え、えと」
ちょっと事情は言いにくい。返答に困る私に斉藤先輩が助け船を出してくれた。
「ああ、付き添ってくれただけだ。たまたま近くにいたんでね」
斉藤先輩はあくまでも自分が勝手に何かにぶつかったと言う事にしておきたいらしい。確かに私は助かるけれど…。
「武東、もう大丈夫。練習に戻ってくれていいよ」
だけど私はためらった。
もうとっくに休憩時間は終わってる。みんな私が帰ってくるのを待っている事だろう。だけど仮にも私を助けてくれた先輩を保健室まで送ってお終いというわけにはいかない。
それに…この二人の関係が気になる。何しろ「匡輝」「緑さん」と呼びあうなんてただの保険医と学生の関係じゃないことは明白だ。
私だって女の子、こういう事はやはり気になるのだ!
「あ、いや…私、付き添いですから。最後までいさせてください!」
何故か武東は力を込めてそう言うと、俺と緑さんを押し込むようにして保健室に入ってきた。
「まあいいけど…本当に大丈夫だぞ?」
「私にも責任感ってものはあります!」
そりゃ責任感は人一倍強そうだしな。やっぱり俺が自分の代わりに殴られた事を気にしてるんだろう。まあ武東がそれで納得するなら別にいいか。
「おやおや、どうなってるのアンタ達。匡輝って武東と知り合いだったっけ」
緑さんは面白そうなものを見る眼で俺達を見ながら、消毒薬などを手早く取り出した。
「同じ南軍だし、名前くらいは知ってるよ」
「そ、そうなんです」
武東は大人しく俺の横に座ってまじまじと俺と緑さんを見ている。
「ふぅん。にしても匡輝、成績見たよ」
「うっ…!」
「はい、口開けて。アンタちっとは勉強しなさいよ?一応受験生なんだから、このままじゃ行けるトコ無いよ?」
人が口を開けていてモノが言えないからと思ってどんどこ言いたい事を言う緑さんが俺の口の中をのぞきこむ。
「歯は折れてない、と。口の中も切れてないし、ちょっと頬が腫れているだけじゃない。別に治療する必要ないわ。明日には治ってるよ」
はい、おしまい。
と、武東が何か言いたそうな表情でいるのが目に入った。
「やっぱ練習に行くか?こちらもどうもなかったみたいだし」
「は?え、ええ、そうですね。まあその通りなんですけど」
?
なんだか武東の様子がさっきからおかしい。
「おいよ」
「はい?」
緑さんが武東に一言だけ言った。俺も、多分武東も何を言われたのかよくわからなくて「おいよ」という言葉の意味を考える。
「だから、甥。私は匡輝の母親の妹ってわけ。つまり叔母ってことになるね」
ああ、そうか。甥。って当たり前じゃないか。
「それが聞きたかったんでしょ?武東は」
「はい。…って、えと、その」
しどろもどろになって何やら手を振り回す武東。何で真っ赤になってるんだ?
「知ってる人は知ってるんだけどね。隠してるわけじゃなし。そっか、武東はあまり保健室とかこないしね」
「そ、そうなんですか。はあ」
「…武東?そんな事が知りたかったのか?」
「いえ、何と言うか……はい」
観念したのか、うつむいて小さな声で答える武東。
「よくわからんが…ちなみに緑さんを『緑叔母さん』と言うと怒られ」
ゴツン
「…こう言う仕打ちを受ける。困った人なんだ」
「あははは、だって高峰先生は若くって美人ですもの。叔母さんなんて似合いません」
「武東、アンタいい事言うねぇ!ほれ、飴をあげよう」
「あ、ありがとうございます」
武東は嬉しそうに飴を受取ると明るい顔で笑った。
何故武東がそんな事を知りたがったのかはよくわからなかったが、まあ考えてみれば『緑さん』『匡輝』と呼び合う生徒と保険医ってのは確かに不思議だもんな。いつもの事だからあまり気にしてなかったが、武東もそういう事は気になる方なんだ。
俺達は特に何を話すわけでもなく、でもこの前みたいなギスギスした感じもなく、それぞれの目的地まで一緒に歩いた。