第四段 特務の追撃

珀皙[ハクシ]

 はたしてこんなでかい街で猷示[ユウシ]達が見つかるのかね。俺は窓枠にもたれて外を見ながら酒をまた一口含んだ。さすがに特務が使う宿だけにそこそこの酒を出す。陛下はどちらかというと質素な宿を好む方だから、むしろ特務の方がいい宿に泊まってるかもしれないな。

 芳滝[フェンヤン]に着いたのは昨日の昼前。丁峰[チンフェン]達特務の連中はそれからろくに休みも取らずに情報収集に出掛けていった。夜遅く帰ってきたようだが、朝は早くから出て行ってまた仕事だ。

 俺は探索の腕があるわけじゃなし、うろつかれていざという時に連絡が取れない方が困るということで、この宿で待機するように依頼されていた。とは言ってもやる事はないから昼間っから宿の女中を相手に酒を呑んでいるわけだ。

「旦那、何か作ってきましょうか」

「お、もう昼時か。そうだな、ちょっと軽めのものを頼むか」

「わかりました。お酒もお代わりを持ってきますね」

「気が利くな。頼むぜ」

 由嘉はそろそろ三十になろうかという女中だが、まだ色気もあり、何よりも話が面白い。うるさくない程度にいろいろとこの街の事を話してくれるので俺としては助かるし、暇つぶしにもなる。

 しばらくして由嘉が戻ってきた。盆に肉を揚げて煮たものと、野菜の和え物、それに刺身や冷麺までのっている。そして徳利も三本ほど。

「これは旨そうだな」

「この宿は料理と酒で売っている宿ですからね。場所はそりゃ繁華街から少し離れているけど、過ごしやすさは格別ですよ」

「うむうむ」

 俺はまた美味い酒を一口含むと、料理に箸を付けた。

「そういえば台所で聞いてきたんですけど、どこかの道場に道場破りが出たんですって」

「ほう。ここでもそういうことはあるのか」

 この時代にしては穏やかな街だと思っていたが。

「まあたまにですけど。でも、その道場破りのおかげでそこの娘さんの祝言がまとまったとか」

「なんだそりゃ」

「なんでもその道場破りがすごく腕の立つ剣士様で、そこの娘さんも斬られそうになったそうなんですよ。そこに隣町の男が助けに来たとかで。もちろん敵うわけがないんですけどね、そのおかげで時間が稼げて。あわや二人とも斬られそうになった時に道場主様が駆けつけて、その道場破りは逃げ出したんだそうですよ」

「それで命の恩人に一目惚れか」

「いえいえ、どうやら前々からの恋仲だったそうで。でも互いに言い出せなくてこじれかけていた時にその事件が起こって、まあお互いの気持ちを確かめ合って大団円と」

「やれやれ、なんだそのぬるい事件は。まったく平和だな」

「何言ってるんですか旦那。世の中そのくらいでちょうどいいんですよ。やれ剣だ刀だとか言って人を傷つけるしか能のないような頭の悪い事をしてるより遙かにマシってもんです」

 俺はその人を傷つけるしか能のない黄鋭[ファンルイ]の剣士なんだがなあ。

「旦那は皇帝様の身辺をお守りする役目でしょう。殺し合いが好きなだけの輩とは違いますよ」

 由嘉はそう笑って酒をついでくれた。

 そう言ってくれるこの女はおそらく本当にそう思っているんだろうな。確かに俺は陛下の身を守る為に存在している。だが、一番やりたいことはまさにこの女の言うとおり、人を斬ることだ。

 もちろん誰でも斬りたいとかいうわけじゃない。弱い奴など斬って喜ぶのは外道のやる事。俺が斬りたいのは強い奴だ。一流の技を持ち、修羅場に怯えぬ強靱な精神力を持ち、斬り合いとなれば一片の躊躇もなく剣を振るう冷酷さを持つ、そんな強い奴と戦いたい。

 俺はともすれば腹を食い破ってあふれ出してきそうなその凄まじい渇望を押し殺しながら形だけの笑顔を作り、酒でその激情を押し流そうと努力した。

猷示[ユウシ]

 朝方、俺達はやっと宿へと戻ってきた。

 なにしろあの後、合家、千家を始めとする両町の連中がよってたかって大騒ぎになったのだ。「道場破りはどこだ!」と勇ましく刀や槍を背負って登場する八百屋、魚屋、小間物屋の親父達は妙に気合いが入っているし、武装はしたもののどこか腰の引けている若い連中はそれでも逃げずに応援に来ただけは立派だが、その親父達に発破を掛けられてやけくその大声をあげているし。

 こちらでは殺気だった親父達が敵はどこだと騒ぎ、あちらでは事情を知った近所の連中が「清ちゃん、まずはおめでとう」などと真っ赤になって縮こまっている千清[チァンシァン]嬢を取り囲んでいるしで大混乱。そちらでは項弥[シァンミ]が友人達から「この野郎!この野郎!」と肩を叩かれ頭をはたかれ、祝福と妬みとその他諸々でもみくちゃにされていた。

 結局、千幣雨が雷のごとき大声で

「皆様、清と項弥[シァンミ]の門出を祝いに駆けつけてくださってありがとうございます!!」

 と叫んでやっとある程度の話が出来るようになったような状態だった。

 無論その後、「そんな事は認めん!」という若い連中の怒号が響いた(どうやら千清[チァンシァン]嬢は両方の町の若い衆にすごい人気があったらしい)が、「清ちゃん、ついに言えたのねー!」「おめでとー!」などと事情を知りながらも見守っていたらしい千清[チァンシァン]嬢の友人達が黄色い声でその怒号をかき消した。その声にはやっと強力な敵が片づいた、という安堵の色も混じっていたような気もするが、まあ大部分は友情からだろう。

 場が落ち着くにはたっぷり一刻はかかった。その後、千清[チァンシァン]嬢と合項弥[ハーシァンミ]が皆の前で結婚する事を報告し、数人の若い男が「太陽の馬鹿野郎ー!」などと妙な事を叫びながらどこかに走り去った。存外本気で千清[チァンシァン]嬢に惚れていた者が多かったと見える。

 それからはなし崩しに宴会となった。近隣の者達が道場に酒と食い物を次々と持ち込み、あっという間に披露宴のような有様だ。俺達は事情を説明してからそそくさと逃げ出そうとしたのだが、もちろん酔っぱらった連中がそんな事を許すはずがない。何度も同じ事を説明させられ、礼を言われ、酒を勧められ、なかなか大変な一夜となってしまった。

「……疲れた」

 さすがのラティアもぐったりとしている。俺達は先に寝てしまった菊花[チーファ]棉紗[ミアンシャ]をそれぞれ背負い、宿に帰り着いていた。

「おやお帰り」

 宿の女将が俺達の背中で寝ている二人の少女を起こさぬように小声で迎えてくれる。

「部屋は用意してあるからね。昼まで寝てるといいよ」

「ありがとう、女将」

「礼を言うのはこちらさ。これでこの町もしばらくは安泰さね」

 そういうと女将はラティアの顔を見てせきたてた。

「ほらほらお嬢さん、寝不足はお肌の敵だよ」

ヌーガ

 ボクは二、三歩走ると壁を駆け上った。三米ほどある壁だけど、このくらいなら別に乗り越えるのに苦労はしない。とんとんっと垂直の壁を走り、壁の上に植えられた刃をなんということもなく飛び越える。

 空中に跳躍し地面に降りるまでのわずかな間に、ボクは早くもこちらに駆け寄ってくる犬の姿を目にしていた。体長一米を越える洞奔犬だ。体重は百公斤もあるか、まともに組み合えば苦戦する相手だ。だけど一頭でこの距離ならたいした事はない。

 擲った隠剣が洞奔犬の眉間に深々と突き立ち、犬は一声も上げずにゴロゴロと地面を転がった。ボクが地面に降り立った時には犬はとうに死んでいた。

 念のために首を踏み折り、隠剣は回収する。ボクの痕跡を残すわけにはいかない。ボクは犬の身体で隠剣を拭うと、それを右足にくくりつけた鞘に戻した。そしてまた駆け出す。今日の任務はこの屋敷にいる全ての生き物を、殺す事だ。

 一人目は裏口に立っていた四十ほどの男だった。それなりに実戦経験を積んできたらしく、油断はしていない。だけど物陰から飛び出したボクを迎え撃つにはあまりにも動きが遅かった。

 一合も打ち合わせる事はない。ただの一刀で肩口を深く斬り下ろされて男は前にのめった。ボクは男の身体から鍵を取ると、裏口から屋敷に侵入する。

「なんだ貴様」

 途端にまた男に遭遇した。剣は下げているけど雑魚だ。ボクは何も言わず、剣を突き出してその男の喉を貫いた。

「ゴボッ」

 男はなんの抵抗も出来ずに倒れた。不甲斐ない。

 そのままボクは歩き出す。ここまでくれば後はただ斬り抜くだけだ。前に出てきた奴を一人一人確実に殺していけばいい。

「きゃ……!」

 女がいた。使用人だろうか、まだ若い。血塗れの剣を持ったボクをみて立ちすくんでいる。ボクはただ剣を横に振った。

 ポクッ

 間抜けな音を立てて女の首が飛んだ。こんなのは楽しくない。剣を持たない者を殺すのはいい事じゃないと思う。だけど、今日はこれが任務だ。

 ボクは首のない女の死体を踏み越えてさらに進んだ。しばらく進むと階段のある広間に出る。そこには若い男が何人か立っていた。

「ん……な、なんだ貴様!」

 三人だ。剣を下げたボクを見て一瞬動きが止まるあたり、大した腕じゃない。でも一応剣を持っているからには問題はない。

 ボクは一気に踏み込んだ。まだ剣を抜ききっていない手前の男の右脇腹から左の肩に向かって下段からの一閃を放つ。

「……え」

 ごぼり。

 一瞬遅れて男の服が逆袈裟に裂ける。その隙間から噴き出すように内臓がこぼれ落ちた。

「ひ!」

 やっと剣を抜いた坊主頭の男に向かう。振り下ろされた剣はそこそこ鋭いけれど、もちろんボクにはかすりもしない。すり抜けながらボクは坊主頭のこめかみをたたき割った。

 ボクの剣は良く斬れる。人間の頭蓋骨くらいなら斬りとばす事だって簡単だ。だけど走り抜けながらの一撃だったのでそこまでは斬れなかった。どちらにしても頭を半分斬られて生きている人間はいないからいいんだけど。

「チェェーッ!」

 奇声を上げながら残りの一人が突進してきた。充分に腰の乗ったいい斬撃だ。何年も修行をしてきたんだろう。

 ボクはその一撃を下段からの跳ね上げで返した。すかさず続く一撃をまた弾く。次の一刀は待たず、その跳ね上げた剣尖をぐるりと回すと、

 ボコン

 首筋に叩き込んだ。

 左の首筋から入った剣はそのまま胸を半分ほど斬り裂いた。もちろん即死だ。と思ったら、男は最後の力を振り絞ったのか、ボクに抱きつこうとした。

 蹴り飛ばす。でもその時に少しだけ返り血がボクにかかってしまった。ちょっと不愉快だ。

 ボクはあと何人が残っているのかな、と思いながら階段を上っていった。

小樹[シャオシュ]

「と言うわけで、ラティア達があっさりと見つかりました」

 閃様は一枚の時事報を指さした。その片隅、十行ほどの記事がそれだ。

『道場破りが縁結び』

 読むと、互いに素直になれずに町の人々まで巻き込んで痴話喧嘩をしていた二人を見かねて、旅の剣士が道場破りを装い、その恋人達を結びつけたという記事だった。

「この記事を見てすぐにその町に行きましてね。本人達は見つかりませんでしたが、関係者に話を聞いたらまず間違いありませんでした。姫様はともかく、あの鉄盾[ティエジュン]は実に特徴的ですしね」

「しかし姫様にしてはずいぶんと手の込んだ事を」

「ですねえ。らしくない事です」

 えらい言われようだけど、僕もそう思う。姫様ならその男の所に乗り込んで「今すぐ態度をはっきりさせるがよい!」とか叫びそうなんだけど。

「おそらく鉄盾[ティエジュン]の妹君の考えた事でしょう。まだ十代前半にもかかわらず、かなりの策士だという事ですから。しかし追われている身でこのような目立つ事をしなくてもいいのですけれどね」

「そこはほら、姫様だからな。何とかしようと張り切ってしまったんだろう」

「さすがの鉄盾[ティエジュン]も抑えきれなかったってところじゃねえか?一度こうと決めた姫様を抑える事は誰にもできねえからな」

 だよねえ。

「で、どうします」

 釧銘さんが真面目な顔になった。

「特務の連中は気づいているでしょうか」

「私がこの町に行った時にはその様子はありませんでした。しかし時間の問題でしょうね。この記事を読んで気づかないような馬鹿揃いではないはずです」

「では今すぐに」

「ええ」

 僕たちは即座に腰を上げると記事に記してある町へと向かった。

 馬は置いていく。一果でも速く着きたいのは山々だけど、この人数が街中で馬を走らせるわけにはいかないし、第一目立ちすぎる。もし特務警察がすでにその町に到着していたら、僕たちはその監視下に飛び込む事になる。彼らは馬に乗って武装した十人近い集団に目をつけないほどの間抜けじゃない。

「合流してからどうしますか」

 萄希[タオシ]さんが閃様に尋ねた。僕は閃様、萄希[タオシ]さんと組んで相斗町に向かっている。一応若夫婦とどちらかの弟、という想定だ。釧銘、債碩さん達は流れの保刃[バオレン]のような格好で右側に、太甫さんは暇な若者という服装で後方に、そして笙錘、壬諷さん達は无頼[ウーライ]のような足取りで左側に、それぞれ関係ないふりをして分散している。

「ラティアがどう行動するかによりますね。おそらくは強情を張るかと思われますが、鉄盾[ティエジュン]が止めてくれるのではないかと期待しています。[リャン]に戻る事に同意してくれれば後はさっさと逃げ出すだけですよ」

「逃げ切れると思いますか」

「まず無理でしょう。ですが例え戦闘になるとしても街中では勝ち目はありません。彼らは町警も動員するでしょうから数だけ考えても戦うのは無謀です。それに衆目の集まるところで[リャン]と特務が市街戦などやらかしては、後々手打ちをするのも難しくなります。せめて郊外に誘い出さないといけません」

「戦うんですか?」

 僕は思わず口を挟んだ。

「できれば戦いたくはありませんが、逃がしてくれるほど特務は甘い組織ではありません。なんとか町の外まで逃げられれば上出来でしょう」

「そうですか……」

 この人も争いごとはなるべく避けて通る信条の人だ。その閃様が戦いは避けられない、というのであればそれは色々な状況を想定した上での発言だから、どうしようもない。

 でも、戦えば[リャン]にも損害が出ることは避けられないだろう。

ラティア

 私は目を開けた。ぼんやりとした視界に誰かの顔が映っている。

「……!」

 それが誰かを理解した途端、私は反射的に飛び退こうとして必死に身体を止めた。傍らで穏やかな寝息を立てている棉紗[ミアンシャ]を起こすわけにはいかぬ。

 しかし、しかし。

 何故私の目の前に猷示[ユウシ]が寝ているのだ!

 私とて商隊を率いる者だ。馬車で個室を与えられるような旅はしておらぬから、閃兄や武などと同室で寝る事もある。だが彼らは家族だ。猷示[ユウシ]は違う。家族でもない男と同室で眠ってしまうなど、私にあってはならない不始末である。

 だが……落ち着いて考えてみればだからなんだ、という話ではある。猷示[ユウシ]は私が隣に寝ているからといって何をするわけでもなかろう。ならば保刃[バオレン]が傍にいるのは別に悪い話ではない。

 その保刃[バオレン]がぐっすりと寝ているのはどうかとは思うが。

 私は動悸が落ち着いたのを感じ、改めて猷示[ユウシ]の顔を見た。

 こちらを向いて安らかな顔で眠っている。炎の入れ墨は枕にほとんど隠れていた。目をつぶり、いつもの鋭すぎる目つきが見えないその顔は、よく見ると意外と整っている。眉を整え、目つきをもう少し柔らかくし、入れ墨を隠せば、実はそこそこ美男子とも言えるかもしれない。

 わずかに微笑むような唇から規則正しい寝息がもれる。

 私は別になにを考えるでもなく、その寝顔を見つめていた。

 何故かはよくわからない。私は別に猷示[ユウシ]に特別な感情は持っていない。読本などでは出会ったその日に恋に落ちるなどという話がありふれている。だが私は猷示[ユウシ]を嫌いではないが、それ以外ではない。

 いや、正確に言うと興味はかなりある。ただそれはあの凄まじい剣力にであって、男に対するそれではない。ない……と思う。

 私はまだ「恋」というものを知らぬ。[シャオ]の街では確かに私の家は事実上の領主であり、私も一応は「姫様」と呼ばれてきた。だが特別に姫扱いされて育ったわけではないから男女問わず友人は多いし、交際の申し込みを受けた事も二度や三度ではない。しかしどうにもそのような感情が持てなかった。そんな事よりも爺様に武術を習い、修行する方が楽しかった。そんな私だから男性に興味を持つという事がどういう事かわかっているわけではない。だが、多分猷示[ユウシ]に対して持っている関心はそういうものではないと思う。

 武術家としては、私は猷示[ユウシ]に並々ならぬ関心を抱いている。

 昨日の立ち会い。あれは確かに出来試合だったが、私は一瞬本気だった。猷示[ユウシ]の顔面に突き入れた短木刀には殺意はないまでも大怪我をさせるくらいの速度は乗せていた。だが猷示[ユウシ]はそれを軽く躱したのみならず、そこから凄まじい反撃を加えてきた。あれが実戦ならば私は死んでいる。

 猷示[ユウシ]以上の遣い手となると私は爺様と父様くらいしか知らぬ。もしかしたら[リャン]の中でも遣い手として高名な湾谷有や封進、釧銘ならば互角かもしれぬ……だが、私は彼らと稽古していても猷示[ユウシ]ほど恐ろしいと思った事はない。無論稽古は殺し合いではないし、彼らが私に殺意を持つなどあり得ぬゆえに比較できるようなことではないかもしれぬが。

 どちらにしても猷示[ユウシ]は私が知っている中でも五本の指に入るほどの遣い手だった。しばしば名前を聞く事のある高名な保刃[バオレン]ではあるが、評判以上だ。

 と、誰かが廊下をこの部屋に向かって歩いてくる気配がした。足音を忍ばせているわけではないし、音が軽いのでおそらくは宿の女将だろう。特に危険はない。

 が。

 猷示[ユウシ]が不意に起きあがった。素早くあたりを見回し状況判断。すでにその手には刀が握られている。私はその野生の獣じみた動きに身動き一つ出来なかった。

「おはよう、ラティア」

 猷示[ユウシ]が何事もなかったかのように平静な声を掛けてきた。このまま寝ころんでいるのも無様なので私も起きあがる。

「もう昼過ぎのようだが、おはよう」

「寝たのが六刻すぎだからな。そろそろ十一刻か?」

 部屋の扉がとんとん、と叩かれたのは私達がそんな会話を交わした後の事だった。

珀皙[ハクシ]

 十一刻をいくらか過ぎた頃、丁峰[チンフェン]と二人の部下が戻ってきた。どうやら鉄盾[ティエジュン]とその連れの消息をつかんだらしい。だが他の者達はまだ探索に出たままで戻っていない。集合時間は十四刻だと聞いて、俺は今すぐ鉄盾[ティエジュン]の潜む町へ向かおうと提案した。

 だが丁峰[チンフェン]の答えは拒否だった。

「真っ正直に町を囲むのか」

「それが一番確実でしょう。だいたいの場所はわかりました。町警を百人動員し、部下が監督して包囲します。逃げられはしません」

「ふむ」

 果たしてそうか?

 相手はあの『鉄盾[ティエジュン]』だ。通常の手が通じるような相手だろうか。むしろ今の手勢で突入するべきではないか。

 だが丁峰[チンフェン]は首を振った。

「我々はあくまでも警察なのです。黄鋭[ファンルイ]から見れば悠長に見えても、町警を差し置いて騒動を起こすわけにはいきません。それに突入したところで逃げられる可能性の方が高いと考えます」

 確かに俺達はわずかに四人で、しかも特務の隊員はほとんど昨日から寝ていない状態だ。観と三人の特務隊員は鉄盾[ティエジュン]とその連れに斬られたようだから、人数だけ見ればその時の再現とも言える。まあ俺と観では腕が違いすぎるがね。

 そう言うと丁峰[チンフェン]は頑固に首を振った。

「あなたの腕は知っています。ですが、私の部下三人は鉄盾[ティエジュン]に斬られたわけではありません。三人とも凡手ではありませんでした。その彼らをあっさりと殺した少女の正体がわからないうちは軽々しく仕掛けるわけにはいかんのです」

「何者かな、その女。鉄盾[ティエジュン]に恋人でもいたか?」

「そんな話は聞いた事がありません。妹と二人で流れ仕事ばかり受けているはぐれ保刃[バオレン]のはずです」

「正体不明の凄腕少女か。そちらにも興味が惹かれるところだな」

「とにかく、現在の情報では我々が有利とは言い切れません。あなたが鉄盾[ティエジュン]と戦っている間に我々が全滅する事もあり得ます。そうなればあなたとて不利は否めぬと思いますが」

「そりゃそうだ」

 それほどの遣い手が二人となればまず勝ち目はないだろう。仕方ない、ここは待つか。

 俺は残りの隊員が帰ってくるはずの十四刻まで、また酒をすすりながら時間を潰す事にした。

菊花[チーファ]

 私は兄様とラティアの声で目を覚ました。なにやら穏やかな調子で朝の挨拶などしているらしい。ちょっとだけ不愉快だわ。

 扉を叩く音がする。誰か来たみたい。

「起きてるかい、お客だよ。通していいもんかね」

 この声はここの女将さんね。兄様が刀を置く。

「誰かな」

「合家の坊ちゃんと千家のお嬢さん、あと数人だね」

「あー、ちょっとだけ待ってもらえるよう伝えてくれるか。身支度しなくちゃならんから」

「はいはい、じゃあ四半刻ほど待ってもらうよ」

「悪いな」

 兄様がやっと刀から手を離す。ラティアはなかなか豪快な寝相を披露している棉紗[ミアンシャ]を揺り起こしていた。

「何の用かしら」

「礼なら昨日さんざん言われたからな……。というかあいつらも昨日ほとんど寝てないだろうに、元気な事だ」

 兄様はそう言いながら隣の部屋に歩いていった。薄い木の引き戸で仕切られているだけだけど、こちらは女性が三名もいる。兄様も同じ部屋で身繕いするほど無神経じゃないわ。

 ていうか。

 私は不意に気がついた。

「ちょっとラティア。何であなたと棉紗[ミアンシャ]がこの部屋にいるのよ」

 小声だけどややきつい口調になってしまったのは仕方ないと思う。だがラティアも困った顔をしていた。

「よく憶えていないのだが……帰ってきたのが六刻ごろでな。そなたと棉紗[ミアンシャ]をこの部屋まで運んできたところで力尽きたような気がする」

「……なにか変な事、しなかったでしょうね」

「するわけがあるまい」

 即答するけど、一瞬目が泳いだのを私は見逃さなかった。なにか怪しいわ。

 でも今はそれを問いつめている場合じゃない。

 私は寝乱れている衣服を手早く整え始めた。

「実はお知らせしておいた方がいいと思われる事があるのです」

 部屋に入ってきた合項弥[ハーシァンミ]は真剣な顔をしていた。けれど明らかに寝不足だわ。きっと昨日は一晩中……というか多分朝まで近所の人達とか友人とかの相手をしなくちゃならなかったのね。せっかく千清[チァンシァン]さんと恋人同士になったっていうのに二人で話とか出来たのかしら。

 だけど合項弥[ハーシァンミ]の言葉を聞いた途端、そんな暢気な考えはふっとんだ。

「こんな事をお訊きするのは無礼だし常識外れだとはわかっていますが、あえて訊きます。あなたは『鉄盾[ティエジュン]』の猷示[ユウシ]さんですよね」

「そうだ」

 合幣雨さんにあっさり見破られているから今さら隠しても仕方ないわね。そもそもある程度保刃[バオレン]を知っている人なら兄様を知らない人はいないわ。

「そしてそちらのお嬢さんは[リャン]武装商隊のラティアレームさんでは」

「……どうして知っている」

 兄様の目が鋭く光った。

「そりゃこれだけ派手な事をしていれば仕方ないでしょう?」

 不意に合項弥[ハーシァンミ]ではない男の声が響いた。兄様がすばやく刀を握り、振り返る。

「正直私も困っているのですよ。逃げ隠れしているならもう少しやりようがあるでしょうに」

 そこには何というか……変な男がいた。

 長身、白皙。細い眉は優雅だけど弱々しくはないし、切れ長の眼には知性の光が溢れんばかり。髪の毛は明るい茶色で少し長め。右のこめかみから後頭部までの髪の毛を赤く染めているのがとても目立つ。

 一言で言えば凄いくらいの美男子ね。

 でも服装はその上……というか下、というか。とにかく地平の彼方を突っ走ってるわ。

 白い胴衣は多分絹ね。素材と作りは良さそうだけど金と黒の糸で大きく刺繍された虎の模様がなにもかもを台無しにしてる。襟元から覗くのは緋色の下衣で、もちろん男の人が着るようなものじゃないわ。綾織りの黒い袴はこれまた上等な物だけど、なんで銀の飾り糸を入れてるのかしら。そして上着は白い生地に朱の縁取りを入れた眼がチカチカしそうなくらい派手なもの。

 一言で言えば信じられないくらいに派手で下品だった。

「誰だ」

 兄様はすでに刀を抜く寸前だ。

「兄だ」

「え?」

 ラティアが立ち上がった。

「その者は私の兄だ。後ろの者達も[リャン]の団員達だ」

 ラティアはそう言うと兄様を見た。兄様が頷いて刀を置く。

「そなた達は何をしに来た。私は[リャン]を抜けたはずだ」

「残念ですがそれは無理ですよ、姫様」

 下品で悪趣味で派手な男……どうやらラティアの兄君らしいけど、その人の後ろから右眼を眼帯で覆った男の人が出てきた。

「俺達はこれでも姫様に命を預けるって決めたんでね。姫様が覚悟を決めたんならついて行きますよ」

「釧銘……」

「第一アンタ、ほんの数日で俺達に追いつかれてるじゃねえか。元々こういうのは向いてねえんだから諦めな」

 なんだか柄の悪い男も口を挟んできた。隣に立っていた背の低い男が穏やかな口調で続ける。

「それよりもこれだけ話題になってしまっては特務にここがばれるのも時間の問題ですよ。すぐに引き払って他の町に行きましょう」

「あ、あの……あなた達はどちら様ですか」

 千清[チァンシァン]さんが合項弥[ハーシァンミ]を背中にかばってる。どう見てもまともな集団じゃないから警戒するのは当たり前よね。

「おお、申し遅れました」

 ラティアの兄君が優雅に腰をかがめた。この人、妙に動作が上流っぽいわ。さすがに[リャン]の御曹司ってことかしら。

「私は[リャン]武装商隊の閃[リャン]と申します。この度はラティアが大変ご迷惑をおかけしました。[リャン]の団員として、そしてラティアの兄としてお礼申し上げます」

「い、いえ。私達こそラティアさん達にはたいへんお世話になりまして!」

 いかに珍妙な服装をしていても美男子は美男子。千清[チァンシァン]さんも丁寧な応対をされてドギマギしてるらしい。

「そう言って頂けると幸いです。本来ならば一席設けさせて頂くのが礼儀なのですが、失礼ながら実は我々は追われる身でして、このままお暇させて頂きたいのです。お許しいただけますでしょうか」

「あの、その事についてなんです、僕らの用事は」

 合項弥[ハーシァンミ]千清[チァンシァン]さんの後ろから身を乗り出した。同時にさりげなく千清[チァンシァン]さんとラティアの兄君の間に割り込む。

 ふふ、飄々としてるように見えて気にしてたのね。

「僕たちの町にも町警に勤めている人間が何人かいまして、彼らから聞いたんです。この飯店に泊まっている顔に入れ墨のある男とその連れを全員捕まえる作戦が行われるって」

「……遅かった」

「奴らもばかじゃないって事だよな」

 どっしりした印象の青年と、対照的に軽そうな青年が顔を見合わせている。

「で、アンタ達は何の用でここに来たんだ?」

 柄の悪そうな男が腕を組む。

「ラティアレームさんも猷示[ユウシ]さんも僕たちの恩人です。ですから、今度は僕たちが力になります」

宋典[ソンテァン]

 事態は那崑[ナコン]の提案通りに動いている。

 最近三件続いた政府高官や将軍の暗殺事件はかなりの衝撃と影響を各所にもたらした。徳洲の経譚将軍、孝霊の馬旋司川、鋳孔のティーレイ外事次官……いずれも大物だ。経譚は燎帝[リアンティ]旗揚げ直後からの部下の一人で熱烈な支持者、馬旋は俺と同じく、以前は軍閥を率いていたが稜曄[ロンファ]に降伏、合併された実力者だ。燎帝[リアンティ]に対する忠誠心は高いとは思われていないが、国の根本の一つである治水を担当する司川という職に就くのに、充分な能力を持っていると評価されていた。ティーレイはブロノアからの亡命者で最初こそ疑われていたが、いくつかの事件を経て燎帝[リアンティ]の信任を得た男だった。稜曄[ロンファ]の外交においてかなり重要な地位にいた男だ。

 古参の燎帝[リアンティ]派、有能だが忠誠心は低い官僚、亡命してきた有力者。彼らに共通の敵はいない。だが彼らの屋敷は襲われ、本人や保刃[バオレン]はもちろん、使用人から家族にいたるまで皆殺しにされていた。

 この大事件に対し、皇国は持てる限りの捜査能力を割いている。近隣の特務警察や軍はもちろん、皇都からも少なからぬ数の増援が徳洲、孝霊、鋳孔の三都市はもちろんその周辺にも向けられていた。

 もちろんこれを計画したのは我々だ。つながりはないがそれぞれ有力な者達を派手に暗殺する事により、皇国の捜査・調査能力をそちらに向けさせる。そうなれば我々の反乱計画が察知される可能性は大幅に減るだろう。それに暗殺された者達はいずれも俺の下にはつきそうもない連中だった。熱烈な燎帝[リアンティ]派の経譚はもちろん、馬旋は軍閥時代からの遺恨がある。ティーレイも俺とは反りが合わなかった。いずれ粛正する事になる者達なのだから、今のうちに役立てておくのが得策だ。

 扉を叩く音がした。

「入れ」

「失礼します」

 入ってきたのは俺の息子、希だった。いつも思う事ながら若い頃の俺にそっくりだ。だが目元は母親の柔らかさを受け継いだ。そのぶん俺よりも魅力のある顔立ちになったとも言える。

「父上、中食をお持ちしました」

 最近では希が俺の秘書役だ。子供の頃は気が弱くて息子としてはともかく後継者としてどうかと思わなくもなかったが、最近では宋家の跡取りとしての自覚が出来てきたらしく、なかなか良い男になってきた。若くして病気で世を去った珊も安心だろう。

 このところヌーガに剣を習い、そちらの腕も上達していると聞く。貴族の隊長たる者、剣の達人になる必要はないが、いざという時に剣を持てないようでは部下はついてこない。

 俺は希の給仕で中食を取りながら様々な報告に目を通し、指示を与えていく。実質的な俺の私兵である第六十七重杜集隊への補給状況は問題ない。訓練状況も万全、いつでも出動出来るという報告だ。

 今回の反乱にはこの連隊から三個杜隊を抽出している。稜曄[ロンファ]に降伏する前に俺が率いていた七万の兵数を考えるとささやかな規模だが、精鋭のみを選び出して絞り込んだその質は高く、わずか四千名の兵数でも往時の戦力に勝るとも劣らぬと思われる。

「父上、いよいよですね」

「ああ。これで珊にも胸を張れる」

 俺は食後の煙草を深々と吸い込んだ。芭仁亜煙草は少し苦めの煙が良い。身体に良くないと言われるが、この美味さを諦めて何が人生だ。

「母上ですか」

 珊は希が七つの時に死んだ。もう十五年にもなる。

「俺が珊に求婚した時の約束が『俺はいつか至高の身になる』だったからな。まあ半分は冗談だったんだが、こうやって大願を果たす日が来たというわけだ」

「父上、それは」

 希が俺をたしなめた。確かに屋敷に潜んでいるであろう間諜共に今の言葉を聞かれたら反乱を企んでいると取られても文句は言えん。

「今は良い。ヌーガと警護の者達が隣も上下も固めておる。昨日も二人ほどネズミを始末したという報告が来たからな。そろそろ穴の中に隠れているのも終わりだよ」

「そうですか」

 希は晴れ晴れと笑った。まだまだこうしていると子供っぽいところがあるな。だがその明るさこそが次期皇帝にふさわしい。策謀を巡らし手を血に濡らす皇帝は配下に慕われぬものよ。

 俺は煙草を吸い終わると、また新しい報告書を手に取った。

棉紗[ミアンシャ]

 私達は町の人達の家から家を伝って逃げました。路地を抜け、裏口から入って屋根裏から樋づたいに隣の家の二階の窓に入り……まるで泥棒のような行動です。

 町警の人達も何人か、密かに協力してくれました。その中には千清[チァンシァン]さんに想いを寄せていたという魏苑さんもいました。この事がばれれば彼らは死罪になるかもしれません。それでも彼らは私達を逃がそうとしてくれるのです。

「この町の住人の先祖は半分は山賊の出だったそうです」

 合項弥[ハーシァンミ]さんが言っていました。

「僕の曾祖父も山賊だったと伝わっています。ですが、この町の人達に大恩を受けて前非を悔い、町に定住を許されたそうです。家の家訓は『受けた仇は同等に返せ。受けた恩は十倍にして返せ』です」

 その曾祖父、そして祖父はいずれも賊や无頼[ウーライ]と戦い、命を落としたそうです。

「僕はご先祖様を誇りに思っています。ですからここで家訓を忘れるわけにいかないんですよ」

「お、夫の信念を助けるのは妻の仕事です!」

 千清[チァンシァン]さんも頬を染めながらそう言われました。

「今の私達があるのはあなた方のおかげです。見て見ぬふりなどすれば一生恥じて生きていかねばなりませんよ」

 つるっ

 (きゃっ……!)

 庇で足が滑り、私は悲鳴を飲み込みました。すぐに猷示[ユウシ]さんが私の腕をつかんでくれます。そのまままるで私が紙人形か何かのように軽々と抱き上げてくれました。

 まるで包まれるように抱きかかえられて思わず頬が熱くなります。あたりは暗くなってきていますから見えないとは思いますけど、それでも私は赤くなった顔を見られないようにそっと横を向きました。

 猷示[ユウシ]さんは私をそっと下ろしてくれました。私は菊花[チーファ]さんと並んでラティアさんと猷示[ユウシ]さんに前後を挟まれてゆっくりと進みます。大人数で動くと見つかる危険が高いということで、[リャン]の人達は別の道を行っているはずですが、その気配はまったく感じる事が出来ません。

 先に進んでいたラティアさんが片手を上げました。止まれ、の合図です。

 私達は事前の打ち合わせ通り、ゆっくりと伏せると動きを止めました。耳を澄ますと下の道を何人かの人が歩いていきます。カチャカチャという音は刀か槍の鳴る音でしょう。

「まだ遠くへは行っていないはずだ。路地も見逃すな」

「はっ」

 飯店に特務の人達が踏み込んできたのは私達がそこを抜け出して数軒先の家の二階を土足で走り抜けていた時でした。背後で響く槌音や気合いにせき立てられるようにして私達は逃げ出したのです。

 それから半刻。私達は相斗町からそろそろ隣町へと抜けようとしています。

猷示[ユウシ]

 なにか嫌な感じがする。俺は前を頼りない足取りで這い進む菊花[チーファ]棉紗[ミアンシャ]を気にしつつも後ろを見た。

 もちろん誰もいない。だが、どうも見られているような気がするのだ。

 おそらくは杞憂だろう。もし特務が俺達のことを見つけたならばなにを差し置いても警報を発して包囲するはずだ。黙って跡をつけるなどということをする理由はない。

 ラティアがこちらを見ている。表情で「何かあったのか」と聞いている事がわかる。俺はだまって首を左右に振ると、それでも妙な気配を感じつつ、ラティア達の後を追った。

 やがて俺達は合項弥[ハーシァンミ]から聞いた地点にたどり着いた。朽ちかけた石垣をツタが覆っている。そのツタを乱さないように掻き分けると、そこには確かに横穴があった。

 これだな。

 宿で手渡された油提灯に付け木で火を付ける。まずそれを穴に差し入れて空気が淀んでいないかどうか確かめた。

 火は問題なく燃えている。彼の言うとおり、ここは通り抜けできるらしい。

 なんでもこの横穴は昔このあたりに小さな城塞があった頃の名残らしい。もともとは石垣から城内に入る為の抜け穴として作られたらしいが、今では関所を通らずに夜中に遊びに行く若者の秘密の通路と化しているそうだ。

「その通路を抜ければ赤貂町です。町警と特警はそこまでは人を配っていないということですから、赤貂町まで出れば安全に脱出できます」

 俺は先頭に立つと油提灯をいくらか伸ばした左手の先に持ち、横穴に潜り込んだ。

 続いて菊花[チーファ]棉紗[ミアンシャ]、そしてラティアが続く。

 穴の中は意外と整頓されていた。使う人間がいる以上、手入れする者もいるのだろう。二十米ほど進むと穴は左に大きく曲がっていた。特に枝分かれなどはないということなので、そのまま進む。もちろん待ち伏せされている可能性は皆無ではないから、油断はしない。

 だが特に誰の気配も感じることなく俺達は横穴を進んでいた。少し先でまた曲がり角があるらしく、油提灯の明かり以外には光源はない。そして油提灯を持っているのは俺一人だ。自然と俺達は固まって歩く格好になっていた。

「あっ」

 視界の隅で菊花[チーファ]が地面の窪みに足を引っかけてよろめいたのが見えた。反射的に手を伸ばそうとしたが、それよりも一瞬速く、棉紗[ミアンシャ]菊花[チーファ]を支えてくれていた。

「ありがとう」

「いいえ、どういたしまして」

 ほのかな光の中で微笑みあう少女達。なかなか心温まる風景だ。

 先ほどまでしつこく感じていた何者かの気配もない。俺は前方を探りつつ、また歩き始めた。

小樹[シャオシュ]

「よし、行け」

 僕は釧銘さんの声と同時に小走りに路地を駆けた。足音を立てないように注意しながら債碩さんが待つ民家の裏口へと走る。

「奥に」

 債碩さんの指示に従って家の中に入る。そこにはずいぶんと太ったおばさんが立っていた。

「こっちだよ、坊や」

 おばさんに軽く礼をして、指さしてくれた方へと進む。裏口と反対側の窓は開いていて、壬諷さんと笙錘さんが外の様子をうかがっていた。

「いやいやここまで町の連中が助けてくれるとはね。人助けは損にならないってことかなあ」

「その人助けをしなけりゃ特務の連中に見つかる事もなかったかもしれねえぜ」

 と、釧銘さんも民家に入ってきた。おばさんに頭を下げていいからいいから、と止められている。

「様子はどうだ」

「問題なし。いけますよ」

 姫様たちは東の方に、閃様と太甫さんは別の道で北の方に脱出している。僕たちは西に向かって脱出中だった。閃様たちがわざと見つかるように逃げているらしく、北の方から怒鳴り声が聞こえてくる。代わりに先ほどからこの辺には町警の人もほとんどいない。

「よし、壬諷」

「はい」

 壬諷さんが体重を感じさせない動きで窓から飛び出した。まったく足音を立てずに路地を走り、角から様子をうかがう。

 しばらくしてから壬諷さんがこちらに向けて親指を立てた。

「笙錘」

「へい」

 斧を持った笙錘さんがこれまたふわり、と窓から出た。それを見た壬諷さんは角から飛び出して次の警戒地点まで走る。

「気を付けてお行き」

 おばさんがそっと声を掛けてくれた。

「ありがとうございます」

 僕はまた頭を下げると、窓枠に足をかけて乗り越えた。前の二人みたいに人間離れした動きはできないから、せめて音は立てないようにする。

 路地を走りながら、僕はまたあの女の子の事を思いだしていた。

 姫様がいるという飯店で、僕はあの少女に出会った。

 正確に言うと僕が一方的に見ただけだと思う。あの子は僕の事なんか気にも掛けていなかった。

 一見金色にも見える明るい栗色の髪。閃様の髪にも似て、でももっとふわふわしていて柔らかそうだった。皇都の最高の画家が一筆でスッと描いたような細い形の良い眉の下にある瞳はとても大きく、鼻筋は可愛らしく通っている。

 なんというか、ものすごく綺麗な少女だった。

 姫様もとても綺麗な人だけど、あの子とは路線が違う。姫様が向日葵とすればあの子は水仙だと思う。

 これって一目惚れっていうんだろうか。まるで背中に稲妻が走ったみたいだった。

 でも、もう二度と会う事はないんだろうな。あの子は鉄盾[ティエジュン]猷示[ユウシ]の妹だということだったから……。きっと姫様が[リャン]に戻れば一緒にいる理由はない。いくらかのお金をもらって別の土地に行くんだろう。

 とても悲しい気持ちになりながら僕は走り続けた。

ラティア

 夕暮れの中、私達は町はずれの道を歩いていた。あと半刻もすれば完全に陽は落ちるであろう。まわりに人家はなく、そうなれば頼りは猷示[ユウシ]の下げている油提灯のみとなる。その前に私達は閃兄様や釧銘と合流せねばならない。

 私は周りの地形を確かめた。右手に林があり、左手には二つの丘が見える。あの抜け通路から赤貂町の外れに出て、路地をたどりつつ芳滝[フェンヤン]の南へと向かい、閃兄様の指示通りの道を歩いてきた。

「道は大丈夫か」

「この道を五公里も行けば待ち合わせの池だ」

 私は先頭を歩く猷示[ユウシ]の問いに答え、私と猷示[ユウシ]の間を歩いている少女達を気遣った。

「そなた達、まだ大丈夫か。あと一刻の辛抱だぞ」

「心配無用よ。たいして疲れてないわ」

「私も平気です。まだまだ歩けますから」

 二人とも微笑むが、足取りからは疲労がにじみ出ておる。無理もない。屋根づたいの脱出からもう三刻以上も歩き通しだ。すでに足の裏が痛くてたまらなくなっているはずだった。

 だが休むわけにはいかない。特務警察があの町で我々を捜している間に、そして町の者達がのらりくらりと時間を稼いでくれている間に、私達は少しでも逃げなくてはならなかった。

 だが、後方から迫る複数の騎馬の足音!

猷示[ユウシ]

「ああ」

 当然猷示[ユウシ]も気づいている。農馬の足音ではない。戦闘用に鍛えられた騎馬兵のものだ。

「だが数が少ない。斥候か」

「隠れるか」

「そうしたいのは山々だが、もう見つけられたらしいぞ」

 馬蹄の間隔が速まった。目の良い者がいるらしい。

「斬り抜けるしかないな。ラティア、二人を頼む」

「まかせるがよい」

 二人で立ち向かいたいところだが、棉紗[ミアンシャ]菊花[チーファ]を守る必要がある。そして保刃[バオレン]猷示[ユウシ]であって私ではない。役割は明確だ。

 一寸後、追っ手は姿を現した。騎馬三騎、うち二名は特務の制服を着ている。

「そこまでだな、鉄盾[ティエジュン]

 背の高い、筋肉質の青年が馬から下りた。特務警察ではないようだが、明らかに剣士だ。それもかなりの腕だと思われる。

 いかにも戦いを好みそうな眼をした青年だ。年の頃は二十代中盤だろうか。細い眼から剣気が迸らんばかりだ。服の上からでも鉄のような筋肉が全身を覆っているのがわかる。

 彼の後方で特務の二人も馬から下りた。さりげなく左右に展開し、私の動きを牽制する。

「さて。戦いの前に一つだけ聞いておきたい事があるのだがいいかな」

「なんだ」

 猷示[ユウシ]はすでに剣に手を掛けていた。腰は軽く落とされ、いつでも戦闘が出来る態勢になっている。

鉄盾[ティエジュン]、君の後ろにいる女性は何者だ。いや、子供二人ではない。棉家の姫と君の妹君を守っている少女の事だ」

「知らんのか」

「わからぬな。特務三人を斬った遣い手だということしかわからん」

 答えるべきか、答えぬべきか。どちらにしても結果は変わらぬゆえ、隠し立ては無意味か。

「斬った後で調べても良いが、ここで答えてくれると手間が省ける」

「ずいぶんと自信があるのだな」

 私は一歩前に出た。猷示[ユウシ]は何も言わない。

「私はラティアレーム・[リャン][リャン]武装商隊隊長である」

「……納得した。ならば腕の冴えも当然だな。だがなにゆえに[リャン]家のものが棉の姫をかばう」

棉紗[ミアンシャ]は私の友人だ。皇国に格別の意趣はないが、友人の危機を救うのが義」

「義か。それは結構だが、[リャン]は皇国の敵となるぞ」

「それを恐れて年若い友人を見捨てるようであれば生きる意味などあるまい」

「なるほどなるほど。それもそうか」

 青年は頷いた。

「だが愚かだな。今ならまだ後戻りは効くぞ。姫を差し出し、詫びを入れれば話がつかぬでもない」

 考える余地はない。

「それをするならば最初から助けなどしておらぬ」

「良いな!それでこそだ」

 青年は声を出さずに笑った。

鉄盾[ティエジュン]、君はどうだ。いくらで雇われたか知らんが、それは皇国を敵に回すほどの額か」

「宿代以外、出してもらった覚えはないな。だがすでに黄鋭[ファンルイ]を一人斬った。第一」

 猷示[ユウシ]は私に背中を向けたままだった。だがニヤリと笑ったのが何故かわかる。

「貴様はどちらにしても俺を斬るつもりだろう」

「はははっ、その通りだ!」

 青年は今度は声を出して笑った。

「そのためにこんな所まで来たんだからな。ああ、言い忘れていたな。俺の名は珀皙[ハクシ]黄鋭[ファンルイ]珀皙[ハクシ]だ。鉄盾[ティエジュン]、君を斬る」

猷示[ユウシ]

 十米ほどの距離を置いて立つ青年は名を名乗った。

 珀皙[ハクシ]。その名前を知らぬ剣客はいない。黄鋭[ファンルイ]の『数持ち』、剣の冴えでは五本……いや、三本の指に入るのではないかと言われるほどの遣い手だ。

 俺も珀皙[ハクシ]の話は何度も聞いている。十六で影波流の免許皆伝を得た天才。その後、数々の真剣勝負にことごとく勝ち、黄鋭[ファンルイ]に加わってからもその剣技を磨き続けているという。俺の年代の剣士では『最強』と呼ぶにふさわしい剣士の一人だ。

「そこで、だ。ラティアレーム・[リャン]

 珀皙[ハクシ]はラティアを見た。

「俺と鉄盾[ティエジュン]の勝負には手出しを控えてもらえないかな」

 あまりにふざけた申し出だった。もちろんラティアがそれを受け入れるはずもない。

「馬鹿な事を言うな。そのような戯れ言を受け入れる理由はない」

「いやいやそれがあるのだよ。ここでもし、鉄盾[ティエジュン]が一人で俺に勝つような事があれば、特務は手を引く」

 何を言っているのだ、この男は。後ろの特務警察の剣士二人も眉をしかめている。

 珀皙[ハクシ]はちらり、と背後の二人を見た。

「もし俺が斬られたら、君たち二人で鉄盾[ティエジュン][リャン]に勝てるか?」

 返答はない。

「彼らはそれでも戦う、と言いたげだが、黄鋭[ファンルイ]の数持ちとして命じる。それは禁止だ」

珀皙[ハクシ]殿!」

 さすがに特務の一人が声を荒げた。

「抗命は陛下の名において許されていない。俺の命令は陛下の命令だ」

「くっ……!」

「無論、そちらとしては二人がかりで俺達と戦うのが上策だな」

 当然だ。俺は珀皙[ハクシ]、ラティアは特務の二人。五分五分の勝負が出来る。もし珀皙[ハクシ]の言うように俺と珀皙[ハクシ]の勝負などしてもこちらには何の益もない。俺が勝てば良いが、負ければラティアは珀皙[ハクシ]と同時に特務二人と戦う事になる。勝ち目はない。

「だが俺は鉄盾[ティエジュン]とその仲間を追ってこちらに向かった事を書き置いている。さて、鉄盾[ティエジュン][リャン]。君らが俺の申し出を受けずに戦ったとしよう。負ければもちろん君らも後ろの少女二人も終わりだが、勝ったとしてどうなる」

 ……なるほど。その場合、特務と黄鋭[ファンルイ]は今度こそ全力を持って[リャン]をこの世から消滅させるだろう。

「今なら私闘で済むとでもいいたげだな」

「さすがにそこまで甘くはない。だが、黄鋭[ファンルイ]の数持ちが一対一の勝負を持ち出したのだ。俺が斬られたとしてもそれを理由として皇国が見苦しい真似はできん」

 取引する余地は残される、というわけだ。

「だが貴様に何の意味がある」

「俺にか?」

 珀皙[ハクシ]は唇を嬉しそうに歪めた。

「あるさ」

 やがてそれは明らかな笑いの形になっていく。なにか強烈なものが噴き出してくるような笑いがその唇からもれる。

「あるに決まってるだろう」

 もう珀皙[ハクシ]はなにも隠してはいなかった。ただ己のありのままの姿をあからさまにさらして、歓喜に身を震わせていた。抑えきれぬ激情のままに喜びを叫ぶ。

「なにしろあの鉄盾[ティエジュン]と戦えるのだ、これ以上俺にとっての利益があるかね!」

 珀皙[ハクシ]は朗らかに笑い声を響かせた。狂気とも取れる言葉の内容を無視すればそれは気持ちよい笑いだと言っていいくらいだった。

「俺はいいかげん弱い奴を斬り捨てるのには飽いたんだよ。黄鋭[ファンルイ]にいればもっと強い奴と斬り合えると思っていたのに、実際には隠れるだけしか能のない暗殺者や剣を持った事もない裏切り者を斬るだけだ。斬り合いたいほどの奴は黄鋭[ファンルイ]にしかいないしな!まったくつまらない毎日だったよ!!」

 珀皙[ハクシ]の剣気が練り込まれていく。

 よくわかる。こいつは鬼だ。剣を練り、人を斬ることにしか本当の喜びを見いだす事の出来ない異常者だ。

 だが、武術家というのはそういう生き物だった。

猷示[ユウシ]

 ラティアが静かに俺を呼んだ。

「そなたはどう思う」

「どちらにしても分の悪い話だな。だが、選択の余地はあるまい」

「すまぬ」

「じゃあ命を預かるぞ」

 俺は一歩前に出た。

ラティア

 猷示[ユウシ]が敵と間合いを詰めていく。私は菊花[チーファ]から努力して視線を外していたが、ついに根負けした。

「許せ。そなたの兄にすべてを押しつけた」

「……仕方ないわよ。あの場合、確かに選択の余地はないわ」

 そう言いながらも私に向けた視線は厳しい。

 ここはあの黄鋭[ファンルイ]などの口車に乗らず、私と猷示[ユウシ]で戦った方が良い事はわかっている。あの特務の二人がどの程度の腕かはわからぬが、私が勝てぬ相手ではあるまい。ならば猷示[ユウシ]黄鋭[ファンルイ]と対峙している間に私が特務を片づけ、二人がかりで黄鋭[ファンルイ]に当たればよい。いかな珀皙[ハクシ]とて私と猷示[ユウシ]の二人がかりであれば負ける要素はほとんどない。

 だが私は[リャン]の事も考えねばならなかった。

「兄様が勝てばこの場は斬り抜けられる。でも、負ければ皆殺しね」

「私が命に替えて守る」

「兄様が斬られれば私も死ぬわ」

 ごく当然のように菊花[チーファ]は呟いた。

「でも、棉紗[ミアンシャ]だけは護ってあげて。あんな奴らに殺させないで」

 私は菊花[チーファ]が何を言いたいか理解した。

「その時は、お願いします」

 棉紗[ミアンシャ]も震える声で、だがはっきりと告げる。

 その時は、殺してください。と。

 捕らえられて反逆者として引き回され、磔になる前に。泣きわめき、命乞いをし、理性を失って恥をさらす前に。

「だがその心配はいらぬ」

 私は二人の少女の手をしっかりと握った。

猷示[ユウシ]黄鋭[ファンルイ]の狂犬ごときに斬られるような男か。そなた達もしかと猷示[ユウシ]の戦いを見届けい」

 その時、猷示[ユウシ]珀皙[ハクシ]の間合いが六米ほどに近づいていた。

 あと一歩、どちらかが踏み出せば猷示[ユウシ]の剣の間合いだ。普通の剣士の倍近い間合いだが、千家の道場で私は猷示[ユウシ]の間合いを確信していた。

 あの時、私は五米を僅かに残して八位掌の奥義、『旋足』の技で踏み込んだ。無手の場合はもちろん、剣を持ってでも遙かな間合い。長槍の間合いだ。並の剣士であればその間合いからの一瞬の攻撃には対応できぬ。

 だが猷示[ユウシ]は難なくその間合いを制し、私の突きを躱した。つまりは、それは猷示[ユウシ]の間合いだったという事だろう。もちろんそれは一流の技、というものを越えている。天より授かった能力のみが可能にする技……天才のそれだった。

 二人の剣気が触れあう。

 その瞬間、猷示[ユウシ]は流れるような動きで刀を抜くと、その一歩を無造作に踏み込んだ。まったく同時に珀皙[ハクシ]も剣を抜く。

 猷示[ユウシ]の刀はやや反りをうった切っ先諸刃の打刀……芦葉刀。刀と言えば片刃のものを指し、「斬る」ことをその主目的とする。だが切っ先諸刃の芦葉刀は「突く」ことも重要視した造りだ。二種の攻撃に用いる事ができる反面、造りの難しさから価格は高くなり、またどうしても強度が落ちる。しかし猷示[ユウシ]の持つそれはかなりの厚重ねであり、切れ味よりも耐久性を重視しているように見えた。同時にそれは重いということも意味する。

 猷示[ユウシ]はその刀を八双の位置に構え、じわじわと前進する。

 対する珀皙[ハクシ]の武器は両刃の剣だった。こちらも戦場での使用を考慮しているのだろう、重く頑丈な造りがこの距離からでもよくわかる。まっすぐに一米近くも伸びた長大な刀身は猷示[ユウシ]のそれよりもさらに重いはずだった。だが、珀皙[ハクシ]はそれをまるで柳の枝のように軽々と抜き、なんと片手で持つと半身に構えた。まるで今構えている剣の半分の重さもない突剣を使う時のような構えだ。

 両者はさらに近づいた。もはや互いに斬り合いの間合いには入っている。私も、棉紗[ミアンシャ]菊花[チーファ]も、そして特務の二人も……まるで石のように身を固めてその始まりを待っていた。

 前触れもなく猷示[ユウシ]が動いた。

 四米の距離を詰めるのに一果はかからない。稲妻のように八双から振り下ろされた刀は袈裟に珀皙[ハクシ]の肩を斬り裂いた。

 ように見えた。

 だがその瞬間、珀皙[ハクシ]は地を舐めるほどにその身を低く折りたたんだ。逞しい長身が信じられないほどに低く地を這う。その蛇のような態勢から、珀皙[ハクシ]はまさしく毒蛇の攻撃のように鋭い突きを放った。

 猷示[ユウシ]は慌てなかった。一撃を躱し、二撃を刀の柄で弾く。だが、力を入れるにはあまりにも不都合な姿勢から放たれた突きは、驚くべき事に三段目を用意していた。いや、前二撃は囮であり、この三撃目こそが本命!

 逃れようのないその攻撃。だがそれは猷示[ユウシ]の腕に弾かれていた。

 喉を狙ったその突きを猷示[ユウシ]の腕に弾かれ、珀皙[ハクシ]がまた蛇じみた動きで間合いをとる。猷示[ユウシ]は後を追わずにまた剣を八双に構えた。

 その右袖が大きく斬り裂かれている。今の突きを弾いた以上、当然だった。そしてその裂け目から見えるのは黒鉄の手甲。

 猷示[ユウシ]の流派は天軌流という。戦場働きを重く見た流派であり、常に武装を怠らないという。武装とは刀を持つ事だけではない。天軌流における武装とは、家の中ですら鎖子、街を歩く時には手甲・脚甲をつけ、時には鉢金を締める事もあるという。胴丸をつければそのまま戦場に出る事のできるような格好は異様ですらあるが、まさにそれが天軌流だった。

 もちろんそのような装備は必然的に動作を鈍重にする。「捷さ」を最重要とする八位掌では余分な防御はなるべく避ける。一瞬の遅滞が生死を分ける近接戦闘では手甲の重みが命取りになりかねない。

 だが戦場では装甲が生死を左右することもある。特に大人数が入り乱れる乱戦ともなるとどこから刃が走り、どこから穂先が飛んでくるとも限らない。その場合に身に装甲を帯びぬことは自殺行為以外の何物でもない。

 猷示[ユウシ]の天軌流は戦争を、私の八位掌は少人数の果たし合いをそれぞれ想定しているのだ。どちらが優れているとか劣っているとかいう問題ではない。八位掌でも戦場にでるとなれば鎖を着る。

 だが天軌流は装甲を帯びてすら素肌の捷さを追い求めたところにその特徴がある。だからこそ日常生活でも常に装甲を帯び、そしてその技の全ては鉄の殻をかぶった状態で最適な動きをすることから始まっていた。最初から鎖子で動きを制限され、手甲、脚甲の重みに耐え……否、それを利用して速度を得る。防御は鉄にまかせ、斬撃は受け、刺突は流し、後の先で必殺の一撃を叩き込む。

 私が爺様から聞いた天軌流というのはそういうものだった。

 だが猷示[ユウシ]の戦い方は違う。それは猷示[ユウシ]が先の先を取る戦い方をする事だ。防御に重点を置く天軌流はまず相手に打ち込ませ、その後の先を取る事によって敵を制するはず。単純な捷さでは装甲を帯びぬ相手に敵わぬゆえだ。

 だが猷示[ユウシ]の捷さは装甲など帯びぬ私に匹敵する。

「凄い……」

 私は思わず呟いていた。宿で見せてもらった猷示[ユウシ]の武装は十公斤を越える重さだった。仮に私がそれほどの重みを背負い、あの動きが出来るだろうか。

 無理だ。

 やはり、猷示[ユウシ]はその身に天の恵みを受けた剣士だった。

 だが、その装甲はやはりこのような一対一の戦いでは不利にも働く。

 再び両者が動いた。猷示[ユウシ]はやはり八双に構えての疾走、そして珀皙[ハクシ]は長剣を片手で構える異様な構えのままの突進!

 勢いのままに銃弾のような連突が珀皙[ハクシ]から放たれる。猷示[ユウシ]はそれを唸りが聞こえるような斬撃で弾き飛ばし、返す刀で珀皙[ハクシ]の首を狙った。

 その時、珀皙[ハクシ]の足さばきが乱れた。いや、乱れたのではない。あれは

 タタタッ

 水を跳ねる石のような奇妙な動きで珀皙[ハクシ]の突進がぶれる。猷示[ユウシ]に弾かれた力すら利用して、珀皙[ハクシ]は半円を描き、猷示[ユウシ]の後ろに回り込んでいた。互いに背中合わせのような形になる。

 もちろん猷示[ユウシ]がその動きに惑わされる事などない。敵が背後に回り込んでの攻撃を仕掛けようとしている事など素早く見取り、身体を捻る。

 だがその時、重装甲が裏目に出た。

 鎖子は刺突にはやや弱いが、重さの割りにはかなりの速度の斬撃にも耐え、かつ動きやすい防御装甲だ。だがそれでも何も身につけていない時よりは動きを制限する。そして一瞬で背後に回り込んだ敵に対処する為に身体を捻る時、その制限は無視できないほどの弱点となる。

 ゴキッ

 振り向きもせずに珀皙[ハクシ]が後ろに振るった剣は猷示[ユウシ]のそれよりも一瞬速く、猷示[ユウシ]の身体を捉えていた。

猷示[ユウシ]

 衝撃が背中に叩きつけられた。

 痛みはまだない。そんなものよりも強烈な衝撃が俺の呼吸を止めていた。

「グハッ」

 何とか息を吐き、とにかく距離を取る。

 ガンッ!ゴンッ!

 上体を百八十度も捻りながら、不自然な体勢とは思えぬ強烈な斬撃を放つ珀皙[ハクシ]。その斬撃を勘のみに頼って七代実克の刀身で受け止める。だが二撃目は受け止めきれず、押し戻された刀身が右肩に食い込んだ。

「クゥッ……!」

 だが鎖のおかげでいずれの斬撃も身には届いていない。骨折くらいはしていてもおかしくはないが、今のところ動きからすると骨にも異常はない。

 ならばまだ戦える!

 俺は思い切り芦葉刀を跳ね上げ、珀皙[ハクシ]の引きに合わせて反撃の一閃を叩き込んだ。不意を突かれた珀皙[ハクシ]が垂直に立てた剣でそれを受け止め、やむを得ず距離をとる。

 ここは追撃するべきだ。

 だが俺はそこであえて後ろに下がった。今の珀皙[ハクシ]の動きが誘いの隙に見えたからだ。

「ふっ」

 案の定、珀皙[ハクシ]はほんの少し笑った。自分の仕掛けた罠に俺が乗ってこなかったからだろう。実際、珀皙[ハクシ]の構えは一分の隙もなく、不意を突かれて思わず後退した剣士のそれではなかった。もし起死回生を狙って踏み込んでいれば……。

 だが、俺が不利である事に違いはない。珀皙[ハクシ]は噂に違わぬ遣い手であり、その蛇のような動きは天軌流に対して非常に効果的だった。

 無論、だから負けるなどという考えは俺にはない。俺は背中と右肩の痛みを無視してまた八双の構えに戻った。

珀皙[ハクシ]

 俺と鉄盾[ティエジュン]の間合いはわずか三米。

 どちらにとっても目の前にいるのと変わらない必殺の間合いのまま、俺達はにらみ合っていた。敵がそこらの剣士であればなにも考えずに串刺しにするところだが、相手が悪い。俺はここ一年は感じた事のない感情を抱きながら剣を構えていた。

 感嘆、焦り……そして、恐怖。

 俺が鉄盾[ティエジュン]に感じていたものはそれだった。底の知れぬ剣力を見せつけるこの男に、俺は確かに恐怖していた。

 それは心地よい感覚だった。いつもの退屈な……敵を蔑みながら剣を振るう時とは全く違う。これが斬り合いだ。

 これが、殺しあいだ。

 俺は三度八双に構えた鉄盾[ティエジュン]の顔面に向けた剣を軽く振った。わずかな反動が指、手首、肘、肩……そして身体に伝わり、そして増幅する。

 鉄盾[ティエジュン]はその名の通り、全身を覆う鎖子を身につけている。さらに手甲、脚甲を身につけ、胴には隠剣を数本仕込んでいると見た。はっきり言えば、このような戦いでは愚かな装備だ。

 一対一の剣士の斬り合いでは装甲は必ずしも有利ではない。もちろん装甲がある事で防御すべき部分が減り、敵の攻め手を限定できるというのは有利な事には違いない。だが装甲をつけるということは錘をつける、ということでもある。一果どころか百分の一果でも速く敵に刃を届かせた方が絶対的に有利な斬り合いにおいて、その重さによる速度低下はむしろ圧倒的な不利を招く。まして手甲・脚甲などという手足の動きを制限する装甲は邪魔なだけだ。

 鉄盾[ティエジュン]の恐ろしいところは、その明らかに不利な装甲を無駄に身につけていながら決して俺に引けを取る事のないその動きだった。装甲のない部分のみを狙う俺の攻撃は軽々と躱され、弾かれ、生身の俺には致命的な斬撃を容赦なく叩き込んでくる。装甲を付けた方が不利、というのはあくまでも速度に違いがある場合の話。この化け物にはその前提が通用しないのだ。

 俺は天軌流という流派の恐ろしさを聞いたことがある。

 長年戦場往来を重ねてきた古強者でも、鎖に鎧を身につけ、長槍と刀で武装するとなると、まともに動けるのはせいぜい二刻という。数十公斤におよぶ装備を身につけて野山を駆けるのは人の身に凄まじい負担を掛けるのだ。だが天軌流の剣士達はその姿で丸一日を戦い続けてもなお意気盛んと言う。常日頃から装甲を身につけ、それがある事が当たり前、という身体の動かし方を幼少の頃から叩き込まれる彼らは、人間の限界を超えるのだ。

 だが、それでも人間だ。動けば疲れ、斬られれば血が流れ、そして心臓を抉られれば死ぬ。

 だから俺は邪道とも言える戦い方を選んだ。装甲の上から力任せに剣を叩きつける。それによって少しでも鉄盾[ティエジュン]の動きを封じ、その速度を殺さねばならない。

 鉄盾[ティエジュン]とて無限の体力を持つわけではない。鎖の上から殴りつけ、その動きを翻弄していけば体力的に不利なのは鉄盾[ティエジュン]であることに違いはない。

 装甲に臆して急所狙いを行うのは天軌流の注文に応えて戦う事になる。彼らはそれこそを求めているのだ。

「フ」

 わずかな呼気と共に放つ突き!

 影波流奥義、『津波』。僅かな剣尖の揺らぎを己が身体で受け入れ、増幅し、そして数百倍の威力で敵を打ち抜く。師匠が得意として幾多の敵を黄泉に送り、俺に授けたその技を、俺はさらに洗練させていた。

 師匠の放つ『津波』は一息に三段。突いては引き、引いては突くその攻撃は同時に三段の突きが放たれるようだと言われた。

 だが。

猷示[ユウシ]

 放たれた突きは雷光のそれだった。

 一撃目。無防備な喉への突きは効果的だが同時に珀皙[ハクシ]ほどの剣士の攻撃としてはあまりにも見え透いている。いかに速くともそれでは通用しない。俺は次の攻撃に備え、左足を一足分踏み出して首の位置をずらす事でその突きを外した。

 その躱した位置に対しての神速の二撃目。顔面、それも一番弱い眼を狙っての突き。ただ速いだけではない、その瞬間の敵の動きに対応しての攻撃だった。まさしく超一流の技。だが顔面への突きは一番避けやすい攻撃でもある。

 そして首から上の攻撃に俺が注意を集中したその時を狙いすました三撃目。それはまさに心臓の真上への突きだった。

 鎖を着込んではいるが、元々鎖子というものは突きに弱い。刃という線の攻撃には防御力を発揮できても、編んだ鎖輪の隙間を狙う突きに対しては細い鎖なりの防御力しか期待できない。そして、珀皙[ハクシ]ほどの手練の突きを受ければそのようなものはないも同じだった。

 しかしやはりその狙いはわかりやすすぎた。神速の三段突きといえど、首、顔面、胸などという定石通りの攻撃では俺は倒せない。

 もらった!

 俺は三段目の心臓への突きを八双からの一撃でたたき落とした。返す刃で珀皙[ハクシ]の首筋へと必殺の一刀を送り込む。

 敵の武器を弾き、その反動をも利用して瞬時に刃の行き先を逆転、敵の急所を割り切る。天軌流の『若枝』という技だ。

 だが俺は疑うべきだった。なぜ珀皙[ハクシ]がそのような稚拙な攻撃をしたのかを。

 七代実克の刃が珀皙[ハクシ]の首根を裂くその一瞬前。俺は右肩に凄まじい衝撃を受けた。

 不覚!

 なぜ珀皙[ハクシ]の突きが三段などと決めつけたのか。

 四段……いや、違う!

 俺は恥も外聞もなく思い切り後ろに跳んだ。泥にまみれる事など考えず、とにかく転がって少しでも珀皙[ハクシ]から遠ざかる。それは起きあがる時間を稼ぐ為にも絶対に必要だった。

 追撃はなかった。

 勢いを殺さず、むしろそのままの勢いで跳ね起きた俺は、五段目の突きを放った姿勢のままの珀皙[ハクシ]を睨みつけた。右肩はひたすらに熱い。ぬめる感触と切れた鎖の断面が傷口を擦り上げる痛みが珀皙[ハクシ]の突きの威力を物語っていた。

 だが肩はまだ千切れてはいない。いくらか突きこまれており、出血もそれなりにあるが、重傷ではない。

 なるほど。これが『数持ち』か。

 俺は内心舌を巻いた。正直なところ、黄鋭[ファンルイ]などと言われても俺は彼らを恐れてはいなかった。確かに様々な武技の達者を揃え、質・量ともに稜曄[ロンファ]最強と言われてはいても、俺なら負ける事はない。そう思っていた。

 俺は自分で言うのもなんだが、刀技に関しては天才と言って良いと思う。十五の歳にはすでに『無双』とまで呼ばれた父上と互角に戦う事が出来た。無論実戦では様々な遣い手と戦い、死の一歩手前まで追いつめられたことも二度や三度ではない。だがその度に強敵を討ち取り、経験を積んできた。ここ二年で今のような状態にまで追い込まれた事はない。

 だがそれは井の中の蛙というものだったらしい。現に今、俺は右肩を裂かれ、強打された左脇腹の背中側はズキズキと痛みを訴えている。肋にヒビくらいは入ったかもしれない。対して珀皙[ハクシ]はかすり傷一つ負っていない。

 俺はまた構えを取った。だが今度は八双ではない。

 確かに今は俺がいくらかの先手を取られた。だが斬り合いは最後に生きていた者が勝ちなのだ。そして最後に生き残る為に、俺はあらゆる技を使わねばならないことを悟っていた。

ラティア

 菊花[チーファ]の小さな手が痛いくらいに私の右手を握りしめてくる。同じく左手を握っている棉紗[ミアンシャ]の手も震えながら、だがその震えを抑えようとするかのように力をこめてきた。

「大丈夫だ」

 私は呟く。猷示[ユウシ]は右肩から血を流し、その服を泥に汚しながらも素晴らしい構えを見せていた。右肩の傷は浅い。あの程度なら動きに不自由はあるまい。問題は鎖子の上から力任せに叩き込まれた一撃の方だ。あれがもし肋を砕いていたら勝負は決まったも同然だった。

 猷示[ユウシ]の構えが変わった。八双ではない。刀身を身体の正中線にぴたりと合わせ、柄をみぞおちに、剣尖を眉間の延長線上に置く。青眼の構えだ。両手剣の流儀では基本の構え、とされる事が多い。基本ゆえに攻撃・防御のどちらにも長け、その応用範囲は広い。

 珀皙[ハクシ]猷示[ユウシ]の構えの変化に何を思ったか、剣を大きく振りかぶった。柄を両手で握っている。あの神技とも言える五段突きではなく、斬りにくる構えだった。

 遣い手の戦いは長引く事は少ない。互いに偶然や勢いで斬られる事はまずなく、全ての技に理由がある。勝負は読み合いとわずかな技量の差によって一瞬で決まる事がほとんどだ。いつまでもチャラチャラと斬り結んでいるのは未熟の証。もちろんこの二人が未熟のはずがない。すでに三回斬り結んでいずれも決定的な技を決められない、ということが異常だった。

 だからおそらく次で勝負が決まる。

 私は掌が汗ばむのを感じながら、その一瞬を待った。

 動いたのは珀皙[ハクシ]だった。

 大きく踏み込み、重い刀身と高い身長、そして圧倒的な膂力を生かした強烈な斬撃を猷示[ユウシ]の首筋に叩きつける。これほどまでに真っ直ぐな打ち込みに対して出来る事は多くない。受けるか、避けるか、その斬撃よりも捷く敵を斬る……「切り落とし」を使うか。

 青眼の構えは基本だ。攻撃も防御も自由自在、あらゆる状況に対応できる。だがこと攻撃となると大上段からの速さには敵わない。最初から振り上げた状態の大上段に対して、青眼は一度振り上げなくてはならないからだ。つまり切り落としは使えない。

 避けるのも難しい。首筋から反対側の腰へ、つまり袈裟に振り下ろされる刃を避けるには左右に大きく避けるか、先ほどの珀皙[ハクシ]の様に低く這うかしなくてはならない。左右に大きく避ければ体勢が崩れ、主導権を相手に握られる。そして猷示[ユウシ]の装甲は珀皙[ハクシ]のような動きをすることを妨げていた。

 つまり猷示[ユウシ]は受けるしかない。

 だが、問題はまさにそれだった。珀皙[ハクシ]猷示[ユウシ]よりも十厘以上背が高い。膂力も間違いなく猷示[ユウシ]を上回る。体重でも二十公斤は違うだろう。そして持っている剣の重さと頑丈さは猷示[ユウシ]の芦葉刀に倍すると見た。つまり、まともに受ければ猷示[ユウシ]は圧される。下手をすれば刀ごと斬られかねなかった。

 そして、猷示[ユウシ]はやはり受けた。跳ね上がった芦葉刀が凄まじい速度で斬り下ろされた珀皙[ハクシ]の剣を受け止める。キイィィン!という金属音が火花と共に響き渡る。

 くっ……

 私の目は、猷示[ユウシ]の刀が押されていくのをはっきりと見ていた。百分の一果単位での動きだ。常人に見えるものではないが、私には見える。猷示[ユウシ]は身体全体を使って珀皙[ハクシ]の斬撃の威力を受け流そうとしているが、あまりに力が違いすぎる。

 グン、と珀皙[ハクシ]の刀身が猷示[ユウシ]の首筋に迫る。駄目だ。このままでは猷示[ユウシ]は受けきれず、自らの刀を首筋にめり込ませて……死ぬ!

 ああでも私には何も出来ない。この距離、この時間では見ている事しかできない。心は私の保刃[バオレン]を助けたくて疾駆しているのに、身体は間に合わない。声すら出す時間がない。

 その瞬間やけに軽快な金属音が響き、同時に珀皙[ハクシ]の剣が一気に振り抜かれた。思い切り右上から左下に振り抜かれた剣の軌跡は、明らかに猷示[ユウシ]の左肩から右腰までを断ち割っていた。

 もし、その剣が完全であったなら。

 ガクリ、と珀皙[ハクシ]の身体から力が抜ける。私は珀皙[ハクシ]の右肩を深々と割った芦葉刀を信じられない思いで見つめた。猷示[ユウシ]の顔をかすめて猷示[ユウシ]の背後へ飛んでいったなにかが、十米以上先で地面に深々と突き刺さり、そして珀皙[ハクシ]が前のめりに倒れた。

 なにか……いや、私達の左側二米ほどのところに突き立っているそれは、確かに珀皙[ハクシ]の剣だった。分厚い重ねの剣が、ほとんど柄本からへし折られていた。

 あの金属音は、この剣が折れた音だった。

「なにが……どうなって……」

 思わず声が漏れる。目の前で起きた事が信じられない。

「あ、あの……」

 棉紗[ミアンシャ]が私を見つめている。菊花[チーファ]もカタカタと震えている。私は彼女たちに決着がついた事を教えよう、と思いながらもすぐには声を出す事が出来なかった。

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