はたしてこんなでかい街で
俺は探索の腕があるわけじゃなし、うろつかれていざという時に連絡が取れない方が困るということで、この宿で待機するように依頼されていた。とは言ってもやる事はないから昼間っから宿の女中を相手に酒を呑んでいるわけだ。
「旦那、何か作ってきましょうか」
「お、もう昼時か。そうだな、ちょっと軽めのものを頼むか」
「わかりました。お酒もお代わりを持ってきますね」
「気が利くな。頼むぜ」
由嘉はそろそろ三十になろうかという女中だが、まだ色気もあり、何よりも話が面白い。うるさくない程度にいろいろとこの街の事を話してくれるので俺としては助かるし、暇つぶしにもなる。
しばらくして由嘉が戻ってきた。盆に肉を揚げて煮たものと、野菜の和え物、それに刺身や冷麺までのっている。そして徳利も三本ほど。
「これは旨そうだな」
「この宿は料理と酒で売っている宿ですからね。場所はそりゃ繁華街から少し離れているけど、過ごしやすさは格別ですよ」
「うむうむ」
俺はまた美味い酒を一口含むと、料理に箸を付けた。
「そういえば台所で聞いてきたんですけど、どこかの道場に道場破りが出たんですって」
「ほう。ここでもそういうことはあるのか」
この時代にしては穏やかな街だと思っていたが。
「まあたまにですけど。でも、その道場破りのおかげでそこの娘さんの祝言がまとまったとか」
「なんだそりゃ」
「なんでもその道場破りがすごく腕の立つ剣士様で、そこの娘さんも斬られそうになったそうなんですよ。そこに隣町の男が助けに来たとかで。もちろん敵うわけがないんですけどね、そのおかげで時間が稼げて。あわや二人とも斬られそうになった時に道場主様が駆けつけて、その道場破りは逃げ出したんだそうですよ」
「それで命の恩人に一目惚れか」
「いえいえ、どうやら前々からの恋仲だったそうで。でも互いに言い出せなくてこじれかけていた時にその事件が起こって、まあお互いの気持ちを確かめ合って大団円と」
「やれやれ、なんだそのぬるい事件は。まったく平和だな」
「何言ってるんですか旦那。世の中そのくらいでちょうどいいんですよ。やれ剣だ刀だとか言って人を傷つけるしか能のないような頭の悪い事をしてるより遙かにマシってもんです」
俺はその人を傷つけるしか能のない
「旦那は皇帝様の身辺をお守りする役目でしょう。殺し合いが好きなだけの輩とは違いますよ」
由嘉はそう笑って酒をついでくれた。
そう言ってくれるこの女はおそらく本当にそう思っているんだろうな。確かに俺は陛下の身を守る為に存在している。だが、一番やりたいことはまさにこの女の言うとおり、人を斬ることだ。
もちろん誰でも斬りたいとかいうわけじゃない。弱い奴など斬って喜ぶのは外道のやる事。俺が斬りたいのは強い奴だ。一流の技を持ち、修羅場に怯えぬ強靱な精神力を持ち、斬り合いとなれば一片の躊躇もなく剣を振るう冷酷さを持つ、そんな強い奴と戦いたい。
俺はともすれば腹を食い破ってあふれ出してきそうなその凄まじい渇望を押し殺しながら形だけの笑顔を作り、酒でその激情を押し流そうと努力した。
朝方、俺達はやっと宿へと戻ってきた。
なにしろあの後、合家、千家を始めとする両町の連中がよってたかって大騒ぎになったのだ。「道場破りはどこだ!」と勇ましく刀や槍を背負って登場する八百屋、魚屋、小間物屋の親父達は妙に気合いが入っているし、武装はしたもののどこか腰の引けている若い連中はそれでも逃げずに応援に来ただけは立派だが、その親父達に発破を掛けられてやけくその大声をあげているし。
こちらでは殺気だった親父達が敵はどこだと騒ぎ、あちらでは事情を知った近所の連中が「清ちゃん、まずはおめでとう」などと真っ赤になって縮こまっている
結局、千幣雨が雷のごとき大声で
「皆様、清と
と叫んでやっとある程度の話が出来るようになったような状態だった。
無論その後、「そんな事は認めん!」という若い連中の怒号が響いた(どうやら
場が落ち着くにはたっぷり一刻はかかった。その後、
それからはなし崩しに宴会となった。近隣の者達が道場に酒と食い物を次々と持ち込み、あっという間に披露宴のような有様だ。俺達は事情を説明してからそそくさと逃げ出そうとしたのだが、もちろん酔っぱらった連中がそんな事を許すはずがない。何度も同じ事を説明させられ、礼を言われ、酒を勧められ、なかなか大変な一夜となってしまった。
「……疲れた」
さすがのラティアもぐったりとしている。俺達は先に寝てしまった
「おやお帰り」
宿の女将が俺達の背中で寝ている二人の少女を起こさぬように小声で迎えてくれる。
「部屋は用意してあるからね。昼まで寝てるといいよ」
「ありがとう、女将」
「礼を言うのはこちらさ。これでこの町もしばらくは安泰さね」
そういうと女将はラティアの顔を見てせきたてた。
「ほらほらお嬢さん、寝不足はお肌の敵だよ」
ボクは二、三歩走ると壁を駆け上った。三米ほどある壁だけど、このくらいなら別に乗り越えるのに苦労はしない。とんとんっと垂直の壁を走り、壁の上に植えられた刃をなんということもなく飛び越える。
空中に跳躍し地面に降りるまでのわずかな間に、ボクは早くもこちらに駆け寄ってくる犬の姿を目にしていた。体長一米を越える洞奔犬だ。体重は百公斤もあるか、まともに組み合えば苦戦する相手だ。だけど一頭でこの距離ならたいした事はない。
擲った隠剣が洞奔犬の眉間に深々と突き立ち、犬は一声も上げずにゴロゴロと地面を転がった。ボクが地面に降り立った時には犬はとうに死んでいた。
念のために首を踏み折り、隠剣は回収する。ボクの痕跡を残すわけにはいかない。ボクは犬の身体で隠剣を拭うと、それを右足にくくりつけた鞘に戻した。そしてまた駆け出す。今日の任務はこの屋敷にいる全ての生き物を、殺す事だ。
一人目は裏口に立っていた四十ほどの男だった。それなりに実戦経験を積んできたらしく、油断はしていない。だけど物陰から飛び出したボクを迎え撃つにはあまりにも動きが遅かった。
一合も打ち合わせる事はない。ただの一刀で肩口を深く斬り下ろされて男は前にのめった。ボクは男の身体から鍵を取ると、裏口から屋敷に侵入する。
「なんだ貴様」
途端にまた男に遭遇した。剣は下げているけど雑魚だ。ボクは何も言わず、剣を突き出してその男の喉を貫いた。
「ゴボッ」
男はなんの抵抗も出来ずに倒れた。不甲斐ない。
そのままボクは歩き出す。ここまでくれば後はただ斬り抜くだけだ。前に出てきた奴を一人一人確実に殺していけばいい。
「きゃ……!」
女がいた。使用人だろうか、まだ若い。血塗れの剣を持ったボクをみて立ちすくんでいる。ボクはただ剣を横に振った。
ポクッ
間抜けな音を立てて女の首が飛んだ。こんなのは楽しくない。剣を持たない者を殺すのはいい事じゃないと思う。だけど、今日はこれが任務だ。
ボクは首のない女の死体を踏み越えてさらに進んだ。しばらく進むと階段のある広間に出る。そこには若い男が何人か立っていた。
「ん……な、なんだ貴様!」
三人だ。剣を下げたボクを見て一瞬動きが止まるあたり、大した腕じゃない。でも一応剣を持っているからには問題はない。
ボクは一気に踏み込んだ。まだ剣を抜ききっていない手前の男の右脇腹から左の肩に向かって下段からの一閃を放つ。
「……え」
ごぼり。
一瞬遅れて男の服が逆袈裟に裂ける。その隙間から噴き出すように内臓がこぼれ落ちた。
「ひ!」
やっと剣を抜いた坊主頭の男に向かう。振り下ろされた剣はそこそこ鋭いけれど、もちろんボクにはかすりもしない。すり抜けながらボクは坊主頭のこめかみをたたき割った。
ボクの剣は良く斬れる。人間の頭蓋骨くらいなら斬りとばす事だって簡単だ。だけど走り抜けながらの一撃だったのでそこまでは斬れなかった。どちらにしても頭を半分斬られて生きている人間はいないからいいんだけど。
「チェェーッ!」
奇声を上げながら残りの一人が突進してきた。充分に腰の乗ったいい斬撃だ。何年も修行をしてきたんだろう。
ボクはその一撃を下段からの跳ね上げで返した。すかさず続く一撃をまた弾く。次の一刀は待たず、その跳ね上げた剣尖をぐるりと回すと、
ボコン
首筋に叩き込んだ。
左の首筋から入った剣はそのまま胸を半分ほど斬り裂いた。もちろん即死だ。と思ったら、男は最後の力を振り絞ったのか、ボクに抱きつこうとした。
蹴り飛ばす。でもその時に少しだけ返り血がボクにかかってしまった。ちょっと不愉快だ。
ボクはあと何人が残っているのかな、と思いながら階段を上っていった。
「と言うわけで、ラティア達があっさりと見つかりました」
閃様は一枚の時事報を指さした。その片隅、十行ほどの記事がそれだ。
『道場破りが縁結び』
読むと、互いに素直になれずに町の人々まで巻き込んで痴話喧嘩をしていた二人を見かねて、旅の剣士が道場破りを装い、その恋人達を結びつけたという記事だった。
「この記事を見てすぐにその町に行きましてね。本人達は見つかりませんでしたが、関係者に話を聞いたらまず間違いありませんでした。姫様はともかく、あの
「しかし姫様にしてはずいぶんと手の込んだ事を」
「ですねえ。らしくない事です」
えらい言われようだけど、僕もそう思う。姫様ならその男の所に乗り込んで「今すぐ態度をはっきりさせるがよい!」とか叫びそうなんだけど。
「おそらく
「そこはほら、姫様だからな。何とかしようと張り切ってしまったんだろう」
「さすがの
だよねえ。
「で、どうします」
釧銘さんが真面目な顔になった。
「特務の連中は気づいているでしょうか」
「私がこの町に行った時にはその様子はありませんでした。しかし時間の問題でしょうね。この記事を読んで気づかないような馬鹿揃いではないはずです」
「では今すぐに」
「ええ」
僕たちは即座に腰を上げると記事に記してある町へと向かった。
馬は置いていく。一果でも速く着きたいのは山々だけど、この人数が街中で馬を走らせるわけにはいかないし、第一目立ちすぎる。もし特務警察がすでにその町に到着していたら、僕たちはその監視下に飛び込む事になる。彼らは馬に乗って武装した十人近い集団に目をつけないほどの間抜けじゃない。
「合流してからどうしますか」
「ラティアがどう行動するかによりますね。おそらくは強情を張るかと思われますが、
「逃げ切れると思いますか」
「まず無理でしょう。ですが例え戦闘になるとしても街中では勝ち目はありません。彼らは町警も動員するでしょうから数だけ考えても戦うのは無謀です。それに衆目の集まるところで
「戦うんですか?」
僕は思わず口を挟んだ。
「できれば戦いたくはありませんが、逃がしてくれるほど特務は甘い組織ではありません。なんとか町の外まで逃げられれば上出来でしょう」
「そうですか……」
この人も争いごとはなるべく避けて通る信条の人だ。その閃様が戦いは避けられない、というのであればそれは色々な状況を想定した上での発言だから、どうしようもない。
でも、戦えば
私は目を開けた。ぼんやりとした視界に誰かの顔が映っている。
「……!」
それが誰かを理解した途端、私は反射的に飛び退こうとして必死に身体を止めた。傍らで穏やかな寝息を立てている
しかし、しかし。
何故私の目の前に
私とて商隊を率いる者だ。馬車で個室を与えられるような旅はしておらぬから、閃兄や武などと同室で寝る事もある。だが彼らは家族だ。
だが……落ち着いて考えてみればだからなんだ、という話ではある。
その
私は動悸が落ち着いたのを感じ、改めて
こちらを向いて安らかな顔で眠っている。炎の入れ墨は枕にほとんど隠れていた。目をつぶり、いつもの鋭すぎる目つきが見えないその顔は、よく見ると意外と整っている。眉を整え、目つきをもう少し柔らかくし、入れ墨を隠せば、実はそこそこ美男子とも言えるかもしれない。
わずかに微笑むような唇から規則正しい寝息がもれる。
私は別になにを考えるでもなく、その寝顔を見つめていた。
何故かはよくわからない。私は別に
いや、正確に言うと興味はかなりある。ただそれはあの凄まじい剣力にであって、男に対するそれではない。ない……と思う。
私はまだ「恋」というものを知らぬ。
武術家としては、私は
昨日の立ち会い。あれは確かに出来試合だったが、私は一瞬本気だった。
どちらにしても
と、誰かが廊下をこの部屋に向かって歩いてくる気配がした。足音を忍ばせているわけではないし、音が軽いのでおそらくは宿の女将だろう。特に危険はない。
が。
「おはよう、ラティア」
「もう昼過ぎのようだが、おはよう」
「寝たのが六刻すぎだからな。そろそろ十一刻か?」
部屋の扉がとんとん、と叩かれたのは私達がそんな会話を交わした後の事だった。
十一刻をいくらか過ぎた頃、
だが
「真っ正直に町を囲むのか」
「それが一番確実でしょう。だいたいの場所はわかりました。町警を百人動員し、部下が監督して包囲します。逃げられはしません」
「ふむ」
果たしてそうか?
相手はあの『
だが
「我々はあくまでも警察なのです。
確かに俺達はわずかに四人で、しかも特務の隊員はほとんど昨日から寝ていない状態だ。観と三人の特務隊員は
そう言うと
「あなたの腕は知っています。ですが、私の部下三人は
「何者かな、その女。
「そんな話は聞いた事がありません。妹と二人で流れ仕事ばかり受けているはぐれ
「正体不明の凄腕少女か。そちらにも興味が惹かれるところだな」
「とにかく、現在の情報では我々が有利とは言い切れません。あなたが
「そりゃそうだ」
それほどの遣い手が二人となればまず勝ち目はないだろう。仕方ない、ここは待つか。
俺は残りの隊員が帰ってくるはずの十四刻まで、また酒をすすりながら時間を潰す事にした。
私は兄様とラティアの声で目を覚ました。なにやら穏やかな調子で朝の挨拶などしているらしい。ちょっとだけ不愉快だわ。
扉を叩く音がする。誰か来たみたい。
「起きてるかい、お客だよ。通していいもんかね」
この声はここの女将さんね。兄様が刀を置く。
「誰かな」
「合家の坊ちゃんと千家のお嬢さん、あと数人だね」
「あー、ちょっとだけ待ってもらえるよう伝えてくれるか。身支度しなくちゃならんから」
「はいはい、じゃあ四半刻ほど待ってもらうよ」
「悪いな」
兄様がやっと刀から手を離す。ラティアはなかなか豪快な寝相を披露している
「何の用かしら」
「礼なら昨日さんざん言われたからな……。というかあいつらも昨日ほとんど寝てないだろうに、元気な事だ」
兄様はそう言いながら隣の部屋に歩いていった。薄い木の引き戸で仕切られているだけだけど、こちらは女性が三名もいる。兄様も同じ部屋で身繕いするほど無神経じゃないわ。
ていうか。
私は不意に気がついた。
「ちょっとラティア。何であなたと
小声だけどややきつい口調になってしまったのは仕方ないと思う。だがラティアも困った顔をしていた。
「よく憶えていないのだが……帰ってきたのが六刻ごろでな。そなたと
「……なにか変な事、しなかったでしょうね」
「するわけがあるまい」
即答するけど、一瞬目が泳いだのを私は見逃さなかった。なにか怪しいわ。
でも今はそれを問いつめている場合じゃない。
私は寝乱れている衣服を手早く整え始めた。
「実はお知らせしておいた方がいいと思われる事があるのです」
部屋に入ってきた
だけど
「こんな事をお訊きするのは無礼だし常識外れだとはわかっていますが、あえて訊きます。あなたは『
「そうだ」
合幣雨さんにあっさり見破られているから今さら隠しても仕方ないわね。そもそもある程度
「そしてそちらのお嬢さんは
「……どうして知っている」
兄様の目が鋭く光った。
「そりゃこれだけ派手な事をしていれば仕方ないでしょう?」
不意に
「正直私も困っているのですよ。逃げ隠れしているならもう少しやりようがあるでしょうに」
そこには何というか……変な男がいた。
長身、白皙。細い眉は優雅だけど弱々しくはないし、切れ長の眼には知性の光が溢れんばかり。髪の毛は明るい茶色で少し長め。右のこめかみから後頭部までの髪の毛を赤く染めているのがとても目立つ。
一言で言えば凄いくらいの美男子ね。
でも服装はその上……というか下、というか。とにかく地平の彼方を突っ走ってるわ。
白い胴衣は多分絹ね。素材と作りは良さそうだけど金と黒の糸で大きく刺繍された虎の模様がなにもかもを台無しにしてる。襟元から覗くのは緋色の下衣で、もちろん男の人が着るようなものじゃないわ。綾織りの黒い袴はこれまた上等な物だけど、なんで銀の飾り糸を入れてるのかしら。そして上着は白い生地に朱の縁取りを入れた眼がチカチカしそうなくらい派手なもの。
一言で言えば信じられないくらいに派手で下品だった。
「誰だ」
兄様はすでに刀を抜く寸前だ。
「兄だ」
「え?」
ラティアが立ち上がった。
「その者は私の兄だ。後ろの者達も
ラティアはそう言うと兄様を見た。兄様が頷いて刀を置く。
「そなた達は何をしに来た。私は
「残念ですがそれは無理ですよ、姫様」
下品で悪趣味で派手な男……どうやらラティアの兄君らしいけど、その人の後ろから右眼を眼帯で覆った男の人が出てきた。
「俺達はこれでも姫様に命を預けるって決めたんでね。姫様が覚悟を決めたんならついて行きますよ」
「釧銘……」
「第一アンタ、ほんの数日で俺達に追いつかれてるじゃねえか。元々こういうのは向いてねえんだから諦めな」
なんだか柄の悪い男も口を挟んできた。隣に立っていた背の低い男が穏やかな口調で続ける。
「それよりもこれだけ話題になってしまっては特務にここがばれるのも時間の問題ですよ。すぐに引き払って他の町に行きましょう」
「あ、あの……あなた達はどちら様ですか」
「おお、申し遅れました」
ラティアの兄君が優雅に腰をかがめた。この人、妙に動作が上流っぽいわ。さすがに
「私は
「い、いえ。私達こそラティアさん達にはたいへんお世話になりまして!」
いかに珍妙な服装をしていても美男子は美男子。
「そう言って頂けると幸いです。本来ならば一席設けさせて頂くのが礼儀なのですが、失礼ながら実は我々は追われる身でして、このままお暇させて頂きたいのです。お許しいただけますでしょうか」
「あの、その事についてなんです、僕らの用事は」
ふふ、飄々としてるように見えて気にしてたのね。
「僕たちの町にも町警に勤めている人間が何人かいまして、彼らから聞いたんです。この飯店に泊まっている顔に入れ墨のある男とその連れを全員捕まえる作戦が行われるって」
「……遅かった」
「奴らもばかじゃないって事だよな」
どっしりした印象の青年と、対照的に軽そうな青年が顔を見合わせている。
「で、アンタ達は何の用でここに来たんだ?」
柄の悪そうな男が腕を組む。
「ラティアレームさんも
事態は
最近三件続いた政府高官や将軍の暗殺事件はかなりの衝撃と影響を各所にもたらした。徳洲の経譚将軍、孝霊の馬旋司川、鋳孔のティーレイ外事次官……いずれも大物だ。経譚は
古参の
この大事件に対し、皇国は持てる限りの捜査能力を割いている。近隣の特務警察や軍はもちろん、皇都からも少なからぬ数の増援が徳洲、孝霊、鋳孔の三都市はもちろんその周辺にも向けられていた。
もちろんこれを計画したのは我々だ。つながりはないがそれぞれ有力な者達を派手に暗殺する事により、皇国の捜査・調査能力をそちらに向けさせる。そうなれば我々の反乱計画が察知される可能性は大幅に減るだろう。それに暗殺された者達はいずれも俺の下にはつきそうもない連中だった。熱烈な
扉を叩く音がした。
「入れ」
「失礼します」
入ってきたのは俺の息子、希だった。いつも思う事ながら若い頃の俺にそっくりだ。だが目元は母親の柔らかさを受け継いだ。そのぶん俺よりも魅力のある顔立ちになったとも言える。
「父上、中食をお持ちしました」
最近では希が俺の秘書役だ。子供の頃は気が弱くて息子としてはともかく後継者としてどうかと思わなくもなかったが、最近では宋家の跡取りとしての自覚が出来てきたらしく、なかなか良い男になってきた。若くして病気で世を去った珊も安心だろう。
このところヌーガに剣を習い、そちらの腕も上達していると聞く。貴族の隊長たる者、剣の達人になる必要はないが、いざという時に剣を持てないようでは部下はついてこない。
俺は希の給仕で中食を取りながら様々な報告に目を通し、指示を与えていく。実質的な俺の私兵である第六十七重杜集隊への補給状況は問題ない。訓練状況も万全、いつでも出動出来るという報告だ。
今回の反乱にはこの連隊から三個杜隊を抽出している。
「父上、いよいよですね」
「ああ。これで珊にも胸を張れる」
俺は食後の煙草を深々と吸い込んだ。芭仁亜煙草は少し苦めの煙が良い。身体に良くないと言われるが、この美味さを諦めて何が人生だ。
「母上ですか」
珊は希が七つの時に死んだ。もう十五年にもなる。
「俺が珊に求婚した時の約束が『俺はいつか至高の身になる』だったからな。まあ半分は冗談だったんだが、こうやって大願を果たす日が来たというわけだ」
「父上、それは」
希が俺をたしなめた。確かに屋敷に潜んでいるであろう間諜共に今の言葉を聞かれたら反乱を企んでいると取られても文句は言えん。
「今は良い。ヌーガと警護の者達が隣も上下も固めておる。昨日も二人ほどネズミを始末したという報告が来たからな。そろそろ穴の中に隠れているのも終わりだよ」
「そうですか」
希は晴れ晴れと笑った。まだまだこうしていると子供っぽいところがあるな。だがその明るさこそが次期皇帝にふさわしい。策謀を巡らし手を血に濡らす皇帝は配下に慕われぬものよ。
俺は煙草を吸い終わると、また新しい報告書を手に取った。
私達は町の人達の家から家を伝って逃げました。路地を抜け、裏口から入って屋根裏から樋づたいに隣の家の二階の窓に入り……まるで泥棒のような行動です。
町警の人達も何人か、密かに協力してくれました。その中には
「この町の住人の先祖は半分は山賊の出だったそうです」
「僕の曾祖父も山賊だったと伝わっています。ですが、この町の人達に大恩を受けて前非を悔い、町に定住を許されたそうです。家の家訓は『受けた仇は同等に返せ。受けた恩は十倍にして返せ』です」
その曾祖父、そして祖父はいずれも賊や
「僕はご先祖様を誇りに思っています。ですからここで家訓を忘れるわけにいかないんですよ」
「お、夫の信念を助けるのは妻の仕事です!」
「今の私達があるのはあなた方のおかげです。見て見ぬふりなどすれば一生恥じて生きていかねばなりませんよ」
つるっ
(きゃっ……!)
庇で足が滑り、私は悲鳴を飲み込みました。すぐに
まるで包まれるように抱きかかえられて思わず頬が熱くなります。あたりは暗くなってきていますから見えないとは思いますけど、それでも私は赤くなった顔を見られないようにそっと横を向きました。
先に進んでいたラティアさんが片手を上げました。止まれ、の合図です。
私達は事前の打ち合わせ通り、ゆっくりと伏せると動きを止めました。耳を澄ますと下の道を何人かの人が歩いていきます。カチャカチャという音は刀か槍の鳴る音でしょう。
「まだ遠くへは行っていないはずだ。路地も見逃すな」
「はっ」
飯店に特務の人達が踏み込んできたのは私達がそこを抜け出して数軒先の家の二階を土足で走り抜けていた時でした。背後で響く槌音や気合いにせき立てられるようにして私達は逃げ出したのです。
それから半刻。私達は相斗町からそろそろ隣町へと抜けようとしています。
なにか嫌な感じがする。俺は前を頼りない足取りで這い進む
もちろん誰もいない。だが、どうも見られているような気がするのだ。
おそらくは杞憂だろう。もし特務が俺達のことを見つけたならばなにを差し置いても警報を発して包囲するはずだ。黙って跡をつけるなどということをする理由はない。
ラティアがこちらを見ている。表情で「何かあったのか」と聞いている事がわかる。俺はだまって首を左右に振ると、それでも妙な気配を感じつつ、ラティア達の後を追った。
やがて俺達は
これだな。
宿で手渡された油提灯に付け木で火を付ける。まずそれを穴に差し入れて空気が淀んでいないかどうか確かめた。
火は問題なく燃えている。彼の言うとおり、ここは通り抜けできるらしい。
なんでもこの横穴は昔このあたりに小さな城塞があった頃の名残らしい。もともとは石垣から城内に入る為の抜け穴として作られたらしいが、今では関所を通らずに夜中に遊びに行く若者の秘密の通路と化しているそうだ。
「その通路を抜ければ赤貂町です。町警と特警はそこまでは人を配っていないということですから、赤貂町まで出れば安全に脱出できます」
俺は先頭に立つと油提灯をいくらか伸ばした左手の先に持ち、横穴に潜り込んだ。
続いて
穴の中は意外と整頓されていた。使う人間がいる以上、手入れする者もいるのだろう。二十米ほど進むと穴は左に大きく曲がっていた。特に枝分かれなどはないということなので、そのまま進む。もちろん待ち伏せされている可能性は皆無ではないから、油断はしない。
だが特に誰の気配も感じることなく俺達は横穴を進んでいた。少し先でまた曲がり角があるらしく、油提灯の明かり以外には光源はない。そして油提灯を持っているのは俺一人だ。自然と俺達は固まって歩く格好になっていた。
「あっ」
視界の隅で
「ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
ほのかな光の中で微笑みあう少女達。なかなか心温まる風景だ。
先ほどまでしつこく感じていた何者かの気配もない。俺は前方を探りつつ、また歩き始めた。
「よし、行け」
僕は釧銘さんの声と同時に小走りに路地を駆けた。足音を立てないように注意しながら債碩さんが待つ民家の裏口へと走る。
「奥に」
債碩さんの指示に従って家の中に入る。そこにはずいぶんと太ったおばさんが立っていた。
「こっちだよ、坊や」
おばさんに軽く礼をして、指さしてくれた方へと進む。裏口と反対側の窓は開いていて、壬諷さんと笙錘さんが外の様子をうかがっていた。
「いやいやここまで町の連中が助けてくれるとはね。人助けは損にならないってことかなあ」
「その人助けをしなけりゃ特務の連中に見つかる事もなかったかもしれねえぜ」
と、釧銘さんも民家に入ってきた。おばさんに頭を下げていいからいいから、と止められている。
「様子はどうだ」
「問題なし。いけますよ」
姫様たちは東の方に、閃様と太甫さんは別の道で北の方に脱出している。僕たちは西に向かって脱出中だった。閃様たちがわざと見つかるように逃げているらしく、北の方から怒鳴り声が聞こえてくる。代わりに先ほどからこの辺には町警の人もほとんどいない。
「よし、壬諷」
「はい」
壬諷さんが体重を感じさせない動きで窓から飛び出した。まったく足音を立てずに路地を走り、角から様子をうかがう。
しばらくしてから壬諷さんがこちらに向けて親指を立てた。
「笙錘」
「へい」
斧を持った笙錘さんがこれまたふわり、と窓から出た。それを見た壬諷さんは角から飛び出して次の警戒地点まで走る。
「気を付けてお行き」
おばさんがそっと声を掛けてくれた。
「ありがとうございます」
僕はまた頭を下げると、窓枠に足をかけて乗り越えた。前の二人みたいに人間離れした動きはできないから、せめて音は立てないようにする。
路地を走りながら、僕はまたあの女の子の事を思いだしていた。
姫様がいるという飯店で、僕はあの少女に出会った。
正確に言うと僕が一方的に見ただけだと思う。あの子は僕の事なんか気にも掛けていなかった。
一見金色にも見える明るい栗色の髪。閃様の髪にも似て、でももっとふわふわしていて柔らかそうだった。皇都の最高の画家が一筆でスッと描いたような細い形の良い眉の下にある瞳はとても大きく、鼻筋は可愛らしく通っている。
なんというか、ものすごく綺麗な少女だった。
姫様もとても綺麗な人だけど、あの子とは路線が違う。姫様が向日葵とすればあの子は水仙だと思う。
これって一目惚れっていうんだろうか。まるで背中に稲妻が走ったみたいだった。
でも、もう二度と会う事はないんだろうな。あの子は
とても悲しい気持ちになりながら僕は走り続けた。
夕暮れの中、私達は町はずれの道を歩いていた。あと半刻もすれば完全に陽は落ちるであろう。まわりに人家はなく、そうなれば頼りは
私は周りの地形を確かめた。右手に林があり、左手には二つの丘が見える。あの抜け通路から赤貂町の外れに出て、路地をたどりつつ
「道は大丈夫か」
「この道を五公里も行けば待ち合わせの池だ」
私は先頭を歩く
「そなた達、まだ大丈夫か。あと一刻の辛抱だぞ」
「心配無用よ。たいして疲れてないわ」
「私も平気です。まだまだ歩けますから」
二人とも微笑むが、足取りからは疲労がにじみ出ておる。無理もない。屋根づたいの脱出からもう三刻以上も歩き通しだ。すでに足の裏が痛くてたまらなくなっているはずだった。
だが休むわけにはいかない。特務警察があの町で我々を捜している間に、そして町の者達がのらりくらりと時間を稼いでくれている間に、私達は少しでも逃げなくてはならなかった。
だが、後方から迫る複数の騎馬の足音!
「
「ああ」
当然
「だが数が少ない。斥候か」
「隠れるか」
「そうしたいのは山々だが、もう見つけられたらしいぞ」
馬蹄の間隔が速まった。目の良い者がいるらしい。
「斬り抜けるしかないな。ラティア、二人を頼む」
「まかせるがよい」
二人で立ち向かいたいところだが、
一寸後、追っ手は姿を現した。騎馬三騎、うち二名は特務の制服を着ている。
「そこまでだな、
背の高い、筋肉質の青年が馬から下りた。特務警察ではないようだが、明らかに剣士だ。それもかなりの腕だと思われる。
いかにも戦いを好みそうな眼をした青年だ。年の頃は二十代中盤だろうか。細い眼から剣気が迸らんばかりだ。服の上からでも鉄のような筋肉が全身を覆っているのがわかる。
彼の後方で特務の二人も馬から下りた。さりげなく左右に展開し、私の動きを牽制する。
「さて。戦いの前に一つだけ聞いておきたい事があるのだがいいかな」
「なんだ」
「
「知らんのか」
「わからぬな。特務三人を斬った遣い手だということしかわからん」
答えるべきか、答えぬべきか。どちらにしても結果は変わらぬゆえ、隠し立ては無意味か。
「斬った後で調べても良いが、ここで答えてくれると手間が省ける」
「ずいぶんと自信があるのだな」
私は一歩前に出た。
「私はラティアレーム・
「……納得した。ならば腕の冴えも当然だな。だがなにゆえに
「
「義か。それは結構だが、
「それを恐れて年若い友人を見捨てるようであれば生きる意味などあるまい」
「なるほどなるほど。それもそうか」
青年は頷いた。
「だが愚かだな。今ならまだ後戻りは効くぞ。姫を差し出し、詫びを入れれば話がつかぬでもない」
考える余地はない。
「それをするならば最初から助けなどしておらぬ」
「良いな!それでこそだ」
青年は声を出さずに笑った。
「
「宿代以外、出してもらった覚えはないな。だがすでに
「貴様はどちらにしても俺を斬るつもりだろう」
「はははっ、その通りだ!」
青年は今度は声を出して笑った。
「そのためにこんな所まで来たんだからな。ああ、言い忘れていたな。俺の名は
十米ほどの距離を置いて立つ青年は名を名乗った。
俺も
「そこで、だ。ラティアレーム・
「俺と
あまりにふざけた申し出だった。もちろんラティアがそれを受け入れるはずもない。
「馬鹿な事を言うな。そのような戯れ言を受け入れる理由はない」
「いやいやそれがあるのだよ。ここでもし、
何を言っているのだ、この男は。後ろの特務警察の剣士二人も眉をしかめている。
「もし俺が斬られたら、君たち二人で
返答はない。
「彼らはそれでも戦う、と言いたげだが、
「
さすがに特務の一人が声を荒げた。
「抗命は陛下の名において許されていない。俺の命令は陛下の命令だ」
「くっ……!」
「無論、そちらとしては二人がかりで俺達と戦うのが上策だな」
当然だ。俺は
「だが俺は
……なるほど。その場合、特務と
「今なら私闘で済むとでもいいたげだな」
「さすがにそこまで甘くはない。だが、
取引する余地は残される、というわけだ。
「だが貴様に何の意味がある」
「俺にか?」
「あるさ」
やがてそれは明らかな笑いの形になっていく。なにか強烈なものが噴き出してくるような笑いがその唇からもれる。
「あるに決まってるだろう」
もう
「なにしろあの
「俺はいいかげん弱い奴を斬り捨てるのには飽いたんだよ。
よくわかる。こいつは鬼だ。剣を練り、人を斬ることにしか本当の喜びを見いだす事の出来ない異常者だ。
だが、武術家というのはそういう生き物だった。
「
ラティアが静かに俺を呼んだ。
「そなたはどう思う」
「どちらにしても分の悪い話だな。だが、選択の余地はあるまい」
「すまぬ」
「じゃあ命を預かるぞ」
俺は一歩前に出た。
「許せ。そなたの兄にすべてを押しつけた」
「……仕方ないわよ。あの場合、確かに選択の余地はないわ」
そう言いながらも私に向けた視線は厳しい。
ここはあの
だが私は
「兄様が勝てばこの場は斬り抜けられる。でも、負ければ皆殺しね」
「私が命に替えて守る」
「兄様が斬られれば私も死ぬわ」
ごく当然のように
「でも、
私は
「その時は、お願いします」
その時は、殺してください。と。
捕らえられて反逆者として引き回され、磔になる前に。泣きわめき、命乞いをし、理性を失って恥をさらす前に。
「だがその心配はいらぬ」
私は二人の少女の手をしっかりと握った。
「
その時、
あと一歩、どちらかが踏み出せば
あの時、私は五米を僅かに残して八位掌の奥義、『旋足』の技で踏み込んだ。無手の場合はもちろん、剣を持ってでも遙かな間合い。長槍の間合いだ。並の剣士であればその間合いからの一瞬の攻撃には対応できぬ。
だが
二人の剣気が触れあう。
その瞬間、
対する
両者はさらに近づいた。もはや互いに斬り合いの間合いには入っている。私も、
前触れもなく
四米の距離を詰めるのに一果はかからない。稲妻のように八双から振り下ろされた刀は袈裟に
ように見えた。
だがその瞬間、
逃れようのないその攻撃。だがそれは
喉を狙ったその突きを
その右袖が大きく斬り裂かれている。今の突きを弾いた以上、当然だった。そしてその裂け目から見えるのは黒鉄の手甲。
もちろんそのような装備は必然的に動作を鈍重にする。「捷さ」を最重要とする八位掌では余分な防御はなるべく避ける。一瞬の遅滞が生死を分ける近接戦闘では手甲の重みが命取りになりかねない。
だが戦場では装甲が生死を左右することもある。特に大人数が入り乱れる乱戦ともなるとどこから刃が走り、どこから穂先が飛んでくるとも限らない。その場合に身に装甲を帯びぬことは自殺行為以外の何物でもない。
だが天軌流は装甲を帯びてすら素肌の捷さを追い求めたところにその特徴がある。だからこそ日常生活でも常に装甲を帯び、そしてその技の全ては鉄の殻をかぶった状態で最適な動きをすることから始まっていた。最初から鎖子で動きを制限され、手甲、脚甲の重みに耐え……否、それを利用して速度を得る。防御は鉄にまかせ、斬撃は受け、刺突は流し、後の先で必殺の一撃を叩き込む。
私が爺様から聞いた天軌流というのはそういうものだった。
だが
だが
「凄い……」
私は思わず呟いていた。宿で見せてもらった
無理だ。
やはり、
だが、その装甲はやはりこのような一対一の戦いでは不利にも働く。
再び両者が動いた。
勢いのままに銃弾のような連突が
その時、
タタタッ
水を跳ねる石のような奇妙な動きで
もちろん
だがその時、重装甲が裏目に出た。
鎖子は刺突にはやや弱いが、重さの割りにはかなりの速度の斬撃にも耐え、かつ動きやすい防御装甲だ。だがそれでも何も身につけていない時よりは動きを制限する。そして一瞬で背後に回り込んだ敵に対処する為に身体を捻る時、その制限は無視できないほどの弱点となる。
ゴキッ
振り向きもせずに
衝撃が背中に叩きつけられた。
痛みはまだない。そんなものよりも強烈な衝撃が俺の呼吸を止めていた。
「グハッ」
何とか息を吐き、とにかく距離を取る。
ガンッ!ゴンッ!
上体を百八十度も捻りながら、不自然な体勢とは思えぬ強烈な斬撃を放つ
「クゥッ……!」
だが鎖のおかげでいずれの斬撃も身には届いていない。骨折くらいはしていてもおかしくはないが、今のところ動きからすると骨にも異常はない。
ならばまだ戦える!
俺は思い切り芦葉刀を跳ね上げ、
ここは追撃するべきだ。
だが俺はそこであえて後ろに下がった。今の
「ふっ」
案の定、
だが、俺が不利である事に違いはない。
無論、だから負けるなどという考えは俺にはない。俺は背中と右肩の痛みを無視してまた八双の構えに戻った。
俺と
どちらにとっても目の前にいるのと変わらない必殺の間合いのまま、俺達はにらみ合っていた。敵がそこらの剣士であればなにも考えずに串刺しにするところだが、相手が悪い。俺はここ一年は感じた事のない感情を抱きながら剣を構えていた。
感嘆、焦り……そして、恐怖。
俺が
それは心地よい感覚だった。いつもの退屈な……敵を蔑みながら剣を振るう時とは全く違う。これが斬り合いだ。
これが、殺しあいだ。
俺は三度八双に構えた
一対一の剣士の斬り合いでは装甲は必ずしも有利ではない。もちろん装甲がある事で防御すべき部分が減り、敵の攻め手を限定できるというのは有利な事には違いない。だが装甲をつけるということは錘をつける、ということでもある。一果どころか百分の一果でも速く敵に刃を届かせた方が絶対的に有利な斬り合いにおいて、その重さによる速度低下はむしろ圧倒的な不利を招く。まして手甲・脚甲などという手足の動きを制限する装甲は邪魔なだけだ。
俺は天軌流という流派の恐ろしさを聞いたことがある。
長年戦場往来を重ねてきた古強者でも、鎖に鎧を身につけ、長槍と刀で武装するとなると、まともに動けるのはせいぜい二刻という。数十公斤におよぶ装備を身につけて野山を駆けるのは人の身に凄まじい負担を掛けるのだ。だが天軌流の剣士達はその姿で丸一日を戦い続けてもなお意気盛んと言う。常日頃から装甲を身につけ、それがある事が当たり前、という身体の動かし方を幼少の頃から叩き込まれる彼らは、人間の限界を超えるのだ。
だが、それでも人間だ。動けば疲れ、斬られれば血が流れ、そして心臓を抉られれば死ぬ。
だから俺は邪道とも言える戦い方を選んだ。装甲の上から力任せに剣を叩きつける。それによって少しでも
装甲に臆して急所狙いを行うのは天軌流の注文に応えて戦う事になる。彼らはそれこそを求めているのだ。
「フ」
わずかな呼気と共に放つ突き!
影波流奥義、『津波』。僅かな剣尖の揺らぎを己が身体で受け入れ、増幅し、そして数百倍の威力で敵を打ち抜く。師匠が得意として幾多の敵を黄泉に送り、俺に授けたその技を、俺はさらに洗練させていた。
師匠の放つ『津波』は一息に三段。突いては引き、引いては突くその攻撃は同時に三段の突きが放たれるようだと言われた。
だが。
放たれた突きは雷光のそれだった。
一撃目。無防備な喉への突きは効果的だが同時に
その躱した位置に対しての神速の二撃目。顔面、それも一番弱い眼を狙っての突き。ただ速いだけではない、その瞬間の敵の動きに対応しての攻撃だった。まさしく超一流の技。だが顔面への突きは一番避けやすい攻撃でもある。
そして首から上の攻撃に俺が注意を集中したその時を狙いすました三撃目。それはまさに心臓の真上への突きだった。
鎖を着込んではいるが、元々鎖子というものは突きに弱い。刃という線の攻撃には防御力を発揮できても、編んだ鎖輪の隙間を狙う突きに対しては細い鎖なりの防御力しか期待できない。そして、
しかしやはりその狙いはわかりやすすぎた。神速の三段突きといえど、首、顔面、胸などという定石通りの攻撃では俺は倒せない。
もらった!
俺は三段目の心臓への突きを八双からの一撃でたたき落とした。返す刃で
敵の武器を弾き、その反動をも利用して瞬時に刃の行き先を逆転、敵の急所を割り切る。天軌流の『若枝』という技だ。
だが俺は疑うべきだった。なぜ
七代実克の刃が
不覚!
なぜ
四段……いや、違う!
俺は恥も外聞もなく思い切り後ろに跳んだ。泥にまみれる事など考えず、とにかく転がって少しでも
追撃はなかった。
勢いを殺さず、むしろそのままの勢いで跳ね起きた俺は、五段目の突きを放った姿勢のままの
だが肩はまだ千切れてはいない。いくらか突きこまれており、出血もそれなりにあるが、重傷ではない。
なるほど。これが『数持ち』か。
俺は内心舌を巻いた。正直なところ、
俺は自分で言うのもなんだが、刀技に関しては天才と言って良いと思う。十五の歳にはすでに『無双』とまで呼ばれた父上と互角に戦う事が出来た。無論実戦では様々な遣い手と戦い、死の一歩手前まで追いつめられたことも二度や三度ではない。だがその度に強敵を討ち取り、経験を積んできた。ここ二年で今のような状態にまで追い込まれた事はない。
だがそれは井の中の蛙というものだったらしい。現に今、俺は右肩を裂かれ、強打された左脇腹の背中側はズキズキと痛みを訴えている。肋にヒビくらいは入ったかもしれない。対して
俺はまた構えを取った。だが今度は八双ではない。
確かに今は俺がいくらかの先手を取られた。だが斬り合いは最後に生きていた者が勝ちなのだ。そして最後に生き残る為に、俺はあらゆる技を使わねばならないことを悟っていた。
「大丈夫だ」
私は呟く。
遣い手の戦いは長引く事は少ない。互いに偶然や勢いで斬られる事はまずなく、全ての技に理由がある。勝負は読み合いとわずかな技量の差によって一瞬で決まる事がほとんどだ。いつまでもチャラチャラと斬り結んでいるのは未熟の証。もちろんこの二人が未熟のはずがない。すでに三回斬り結んでいずれも決定的な技を決められない、ということが異常だった。
だからおそらく次で勝負が決まる。
私は掌が汗ばむのを感じながら、その一瞬を待った。
動いたのは
大きく踏み込み、重い刀身と高い身長、そして圧倒的な膂力を生かした強烈な斬撃を
青眼の構えは基本だ。攻撃も防御も自由自在、あらゆる状況に対応できる。だがこと攻撃となると大上段からの速さには敵わない。最初から振り上げた状態の大上段に対して、青眼は一度振り上げなくてはならないからだ。つまり切り落としは使えない。
避けるのも難しい。首筋から反対側の腰へ、つまり袈裟に振り下ろされる刃を避けるには左右に大きく避けるか、先ほどの
つまり
だが、問題はまさにそれだった。
そして、
くっ……
私の目は、
グン、と
ああでも私には何も出来ない。この距離、この時間では見ている事しかできない。心は私の
その瞬間やけに軽快な金属音が響き、同時に
もし、その剣が完全であったなら。
ガクリ、と
なにか……いや、私達の左側二米ほどのところに突き立っているそれは、確かに
あの金属音は、この剣が折れた音だった。
「なにが……どうなって……」
思わず声が漏れる。目の前で起きた事が信じられない。
「あ、あの……」
人の山田様が見てる
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