第一段 刀と血潮と二人の出会い

猷示[ユウシ]

 俺はなんとなく、青く霞む初夏の空を見上げた。夏の深さとも秋の高さとも、そして冬の澄み渡った空とも違う、この季節特有のどこかもやのかかったような、それでいて雲一つない空だ。陽射しは柔らかく、風も良い。どことなく花の甘い香りがしてくるようだ。

 まあそれはたいへん結構なことではある。心静かに春から夏へと移り変わろうとする季節を楽しむというのは少なくとも悪い事ではあるまい。

 問題は俺の懐具合の方だった。この街まで仕事でやってきたはいいが、それからパタリと仕事がない。たまにあったとしても後ろ暗いものか、払いの渋すぎる代物ばかり。そんなこんなでちょっとのんびりしていたら妹が風邪を引いてしまい、ここ数日伏せっている。明日……いや、明後日あたりには元気になっているだろうが、元々身体の弱い娘だ。無理はさせたくない。栄養のあるものも食べさせてやりたい。

 だが金がない。

「さて困った」

 俺はもう一度懐から巾着を取り出した。何度見てもそこに入っているのは矧金が三枚に五分金が二枚、銖貨が十数枚。宿代および食事代としてあと三日分程度だ。頑張っても五日で尽きる。

「稼がないといかんなあ……」

 こうなったら土方でもやるか。昨日行ってみた保刃[バオレン]会で紹介された仕事よりはマシだろう。

「仕事なら二件あるよ」

 保刃[バオレン]会の親父はブスッとした顔をピクリとも動かさずに二枚の紙を放ってよこした。きっと他人には歯を見せないという人生哲学があるのだろう。

「一つは四泰会の幹部の護衛。もう一つはなんとかっていう商隊の保刃[バオレン]だよ」

 四泰会というのはこの街の有力組織……早い話が无頼[ウーライ]だ。もちろんそんな輩の護衛をするほど落ちぶれてはいない。それに商隊の護衛は一番保刃[バオレン]らしい仕事だ。迷うことはないな、と思いながらもう一枚の依頼書を見て、俺は眉をしかめた。

「おい……なんだ、この払いは。いくらなんでも安すぎる」

 そう。渡された紙にチマチマした字で書かれた数字はあまりにも酷かった。

「一日四十銖だと?手伝いの小僧を雇うんじゃないんだぞ」

「アタシもそういったんだけどね」

 親父は俺に目もくれずにタバコの煙をプカアッと吐いた。

「その商隊の隊長が言うにだね、この辺は安全で気候もいい、念のために保刃[バオレン]の一人はいた方が良いけどどうせ何も起こらないのに高い金を払うなんてばかばかしい、この程度の金でやってくるくらいの奴で良いから紹介しろ、と言うことでね」

 と、親父はここではじめて俺をちらり、と見た。

「アンタの腕が立つのは知ってるけどね。金がないんだろ?少なくとも飯は出るよ、これなら」

「余計なお世話だ」

「それとも四泰会のほうがいいかい?払いは十倍だけどね」

「どちらも御免こうむる。无頼[ウーライ]も強欲も性に合わん」

 俺は立ち上がった。

「いいのかい?妹さんが病気だそうじゃないか。少しでも金が要るんじゃないかね」

 さっきまでの仏頂面はどこへやら、一転して愛想笑いを浮かべながら親父がにじり寄ってくる。さっきまではこちらが多少不満があっても仕事を引き受けるだろうと踏んでいたのに、どうやら読みが違ったらしい、つまり仲介料が入らなくなるということを理解して人生の指針を変更することにしたようだ。

 まあそれはいい。間違いを素直に認め、正すのは立派なことだ。

 だが俺にもそれなりの考えというものがある。人身売買で財をなした輩の汚い仕事に手を貸す気はないし、いざとなれば命をかけて戦う保刃[バオレン]を住み込みの丁稚と同じ扱いにするような商隊に力を貸すのもお断りだ。

 俺は最後はすがりつきかねない様子だった親父を後にして保刃[バオレン]会を出た。

 まあそんな事するくらいなら力仕事でもしていたほうがいくらかマシだな。俺は一人頷くと街の市場へと足を向けた。

 今日の所は菊花[チーファ]の好きな魚となにか野菜でも買ってこよう。で、明日菊花[チーファ]が起きあがれるようになったらちょっと堤作りか穴掘りの仕事でも見つけてくるさ。いくらか金を作ったら別の街にでも行くかな。

棉紗[ミアンシャ]

「お嬢様!私から離れませぬように」

「う、うん……雷」

「心配はいりませぬぞ。この雷が必ずお守りします」

 雷は私を背にかばうと刀を抜きました。幅の広い、大きな刀です。『龍形刀というのですよ。師匠からいただいたものなのです』と聞いた事があります。雷はいつもこの刀で私と家族を守ってくれました。

 そう。いつもです。ですから。

「雷は強いですから、心配していません」

「お任せ下さい」

 雷はニカッ、と笑うと反対側の木立の方へと顔を向けました。その時にはもういつもの優しい雷ではなく、戦士の厳しい顔になっていました。

「出てくるがよいぞ、そこの者」

「……仕方ないな」

 呼びかけに答えて現れたのは一人の青年でした。ひょろりとした感じのする人で、あまり強そうじゃありません。クマのように大きな雷と比べたらいかにも弱そうに見えました。

「他にもいるだろう」

「そりゃいるけど」

 え……。そんな。この人がいつ来たのかもわかりませんでしたのに、他にもいるのですか?でも、何人いても雷の敵ではありません。

 ですが、その人の言葉は私達を愕然とさせるには充分でした。

「まあ手出しはさせないさ。僕は津豹。黄鋭[ファンルイ]衛士だよ」

 黄鋭[ファンルイ]……。

「そうか……黄鋭[ファンルイ]が出てきたか。ワシは伊雷という。棉紗[ミアンシャ]様の護衛だ」

 雷は私をそっと見ました。その目がとても優しくて、とても悲しく思ったことを憶えています。きっと、ずっと忘れません。

「別れは済んだ?じゃあ行くよ」

 青年は薄く笑うと一気に近づいてきました。いつ抜いたのか、その手には剣が握られています。とても怖かったけど、でも雷が戦うのです。私は雷の主人として、その戦いを見届ける義務があります。

 最後まで……目は背けないと誓いました。

ラティア

 私が彼女たちを見つけた時には、勝負はすでについていた。いや、戦う前から決まっていた事だ。

 二米を越す大柄な剣士が、同じく背は高いがひょろひょろした剣士と斬り合っている。見覚えのある幼い娘をかばって戦う巨漢はかなりの遣い手のはずだが、痩せた剣士はさらに凄まじい剣を遣っていた。

 グワン、と大気を揺らすような斬撃を軽々と躱し、目にもとまらぬ斬撃を放つ。必死に躱そうとする巨漢だがそれは敵わず、瞬く間に血だるまになっていく。血にまみれながらも剛剣を奮い、主人を守る為に力を振り絞っているが、剣力の差は圧倒的だった。

 駄目だ。

 助けられない、と悟り、私はせめて娘だけでも助けようと気配を消した。あの巨漢が時間を稼いでくれている間に娘をさらう。敵はあの剣士だけではない。まだ数人の気配がする。だが彼らは目の前の凄まじい戦いに気を取られていてまだ私に気づいてはいないようだ。

 木の陰に隠れながら、目の前の凄惨な死闘に怯えて蒼白になりながらも、それでも必死に従者の死闘を……そして最後を見届けようとしている娘の側に急ぐ。幸い茂みや木陰の多い地形だ。

 青年の一撃が巨漢の肩を深く裂いた。だがそのために僅かに速度が鈍った刀身を巨漢が握りこむ。

 今だ!

 私は飛び出した。跳躍するように走る。もう護衛の巨漢は目も見えていないだろう。だが、最後の力を振り絞って指が落ちるのも構わずに青年の刀を握り込み、幼い主人の為に一瞬でも時間を稼ごうとしている。

 その忠誠、無駄にはしない。

 驚きに目を見張る娘を横抱きに抱え上げた。ほとんど気を失いかけていた娘がビクン!と跳ねた。

「だ、誰!?離して、離してくださいっ!!」

「黙れ!彼の働きを無駄にしたくなかったら黙って私に掴まるがよい!」

 鋭く叫び、ただ走る。幸い娘は一年前とあまり変わらず、小さく軽い。これなら街までなんとか行けるだろう。

猷示[ユウシ]

 案外安くて良い魚が手に入った。この街はろくな街ではないが、近くに大きな川があるので魚だけは安くて新鮮だ。野菜も巻心菜のいいものがあった。菊花[チーファ]はこれが好きだから、今日は魚を焼いて巻心菜の和え物でも作ってやろう。

 市場から宿までは俺の足でも半刻以上かかる。早い話、街の外れに建っている宿なのだ。だが不便な分、宿代は安い。そのわりに作りはよいし、なによりも主人がしっかりした男だ。伏せっている菊花[チーファ]を一人残してきても心配がないというのはありがたい。

 だが、さすがに宿代もないのに逗留するわけにはいかんよなあ……。あの主人ならしばらくは宿代がなくても置いてくれそうだが、当てもないのにツケというわけにもいくまい。

 ふと、よく知っている気配がした。

 血と鉄。焦り、恐怖、そして殺意。近い……というよりもどんどん近づいてくる。

 身を隠すかどうか一瞬考えて、やめる。大声も上げずにただひたひたと追われ追いかけると言うことは、両者とも心得のある者だろう。下手に隠れても無駄だろうし、他意があると見なされて双方から狙われかねない。巻き込まれるのは心外だが、まあ世の中仕方ないこともあるものだ。

 左手の林の奥から物音が近づいてくる。俺は魚と野菜の包みを左手に提げ、右手を刀の柄に添えた。

 飛び出してきたのは一人の少女だった。まだ十代だろう、幼さを残した顔立ちだが、しかしちょっと珍しいほどの美少女だった。小麦色の艶やかな肌に明るい栗色の髪が映え、キリッとした眉とキツめの瞳が印象的だ。長袖の上着と筒袴を着ているが、その服装の上からでも均整の取れた体つきであることがわかる。

 なぜか少女は小脇に十歳かそこらの子供を抱えていた。子供……どうやら女の子は少女を信頼しているようで、黙って抱きついている。

 女(一人は子供だが)が追われていると言うことは追っ手は乱暴を働こうとする不届き者か、と一瞬思ったが、すぐに考え直す。少女はさすがに息が荒いが、子供とはいえ一人の人間を抱えているのに足つきはまったく乱れていないところを見ると、どうやら武術家らしい。その目つきもか弱い女のものではない。そこらのごろつきならば十人まとめて叩きのめしそうだ。その娘がただ追われる一方という事は、相手は並の者ではない。

 その少女は林から飛び出すと同時に俺に気づき、一瞬身構えた。だが追っ手の仲間ではない、と瞬時に判断したらしい。素早く後ろを振り向き、そしてまた俺を見た。

 さてこの少女はどうするか。助けを求めるか?それとも女の子を俺に預けようとするか?

 だが少女はそのどちらも選ばなかった。代わりに鋭く告げた。

「逃げよ!そなたには関係ないことだ!」

 気に入った。

 確かにこの場合、俺に彼女たちを助ける義理はまったくない。だが彼女は容姿に恵まれた美形で、さらに女の子を連れている。彼女が何をして追われており、追っ手が何者かはわからないが、ここで助けを求められれば断る男は少なかろう。

 だが彼女は関係のない俺を巻き込まないことを選んだのだ。おそらく助けがなければ自分も子供も追っ手に捕捉されることをわかっていながら、あくまでも自分の落とし前は自分でつけると言うことだろう。

 何故追われているのかはわからないが、このような人間であれば悪いことをしたのではないだろう。ならば言われるがままに見捨てるのはさすがに出来ん。俺はさらに女の子を抱えて逃げようとする少女に声をかけた。

「非道なことをして追われているのか?」

「違う!」

 少女の答えは簡潔だった。まったく動揺のない声と眼差し。これで嘘をついているとしたら相当な強者だろうな。

「金は持っているか」

「……なんだと。なんのつもりだ」

 こちらが敵に回ると思ったのか、少女の目つきが殺気を帯びた。

「俺は保刃[バオレン]だ」

 そう告げると少女の敵意はふっと消えた。この緊急時にもかかわらず冷静さを失わず、頭の回転が速い。ただ者ではないな、と思ったが、

「そう言うことか。金は今はないが、私の商隊はそれほど貧しくはない」

 さすがに驚いた。「私の」商隊ときた。ということはこの少女、商隊主の娘か。となれば立派な客じゃないか。

「雇え」

「よし。雇う」

 鋭く、そして迷いのない答え。この瞬間、保刃[バオレン]衛要[ウェイヤオ]としての契約が成立した。もう追っ手はすぐ傍だ。細かい話をしている暇はない。

「ではここで戦うぞ。その子を頼む」

「わかった」

 少女は女の子を下ろし、腰に下げていた妙な形をした武器らしいものを握った。半円形の刃を二つ組み合わせたような形をしている。どこかで聞いたことのあるような形だが……。

「敵は遣い手で、三人はいる。そなた、保刃[バオレン]と言うからには腕は立つのだろうな」

「安心しな。剣だけが取り柄なんでね」

 俺は衛要[ウェイヤオ]を安心させる為に自信たっぷりに断言した。何しろ会ったばかりで、互いの力量もわからないし、そもそも信用できるのかどうかすらわからず、しかも敵はすぐそこだ。まずは俺を信頼してくれなくては戦いにならない。

 だが心配は無用だったようだ。少女は俺の左側で後ろに女の子をかばって武器を構える。その瞳は真っ直ぐに林を見据え、俺には一片の警戒心も抱いていない。どうやら決断した以上は俺を完全に信じることにしたらしい。

 ではその信頼に応えなくてはな。

 俺は刀を抜いた。

 刃渡り九十厘。緩やかに反った刀身は先端三十厘ほどだけが両刃になっている。

「その刀は……」

 少女が少しびっくりしたような目を向けてくる。だが答えている暇はない。

 浸み出すような足取りで一人の男が道に出てきた。枯れ木のように痩せた青年だ。片手に提げた細身の刀の方が、それでも青年よりも重いのではないかと思うくらいだが、腰はピタリと据わっている。相当な遣い手だ。

 そしてさらに二人……いや、三人の男が林から出てきた。いずれも両刃の剣を抜き、隙のない物腰だ。どう見てもそこらの无頼[ウーライ]の類ではない。むしろ訓練された衛士か兵士の様相である。

 まあ相手の正体を詮索するのは後でいい。

 青年が俺を見て、少し不思議そうな顔をした。

「君はそこのお嬢さんの仲間かな?そうでないなら逃げていいよ。今なら追わないからさ」

「生憎だが、たった今、その娘は俺の衛要[ウェイヤオ]となった。保刃[バオレン]として逃げるわけにはいかんな」

「ふうん。じゃあここで死ぬんだね」

 とらえどころのないうっすらとした笑みを口元だけに浮かべた青年が近づいてくる。どうやら俺の相手はこの枯れ木がするらしい。となると残りの三人はあの少女に向かうことになる。少女も並の遣い手ではなさそうだが、さすがに三人は無理だろう。

 だが少女は力強い声で断言した。

「心配要らぬ。残りの者は私がなんとかするゆえ、そなたはその牛蒡をへし折れ」

 緊迫した状況にもかかわらず、俺は思わず噴き出しそうになった。なるほど、この男は痩せていて色黒だ。言われてみれば牛蒡に見えないこともない。だが言われた青年はどうやらこの表現に傷ついたようだ。

「お嬢さん、あなたは後でたっぷりと苦しんで死ぬことになりますよ」

「やれるものならやってみるがよい」

「では」

ラティア

 私は商隊の頭だ。当然ながら保刃[バオレン]のこともよく知っておる。

 保刃[バオレン]とは元々は旅人や商人の護衛をする武人のことだ。武術家たるものは己の技を極め、いつかは道場を開くのが理想の道だが、皆がその地位を得られるわけでない。道場を持たぬ武術家にとって、職を得ると言えば軍に入るか保刃[バオレン]になるかどちらか選ぶのがまずは現実的な話である。現に私の商隊にも十名ほどの保刃[バオレン]がおり、いずれもかなりの遣い手だ。

 保刃[バオレン]の数は少なくない。おそらく大陸全土では十万を超すだろう。その中でも優秀な……あるいは問題のある保刃[バオレン]は有名人だ。『朱の戦神』銅巌、『海流』黒燕、『舞踏剣士』鳳党允などは子供でも知っているくらいの者達である。

 『鉄盾[ティエジュン]猷示[ユウシ]の名も、少なくとも武林に属する者であれば知らぬわけはない。

 剣先のみ両刃の芦葉刀を遣い、卓越した戦術眼を持ち、まだ若いのに守り抜くことにかけては右に出る者はいないとまで言われる優秀な保刃[バオレン]。だが同時に我が儘で冷血であり、組織に向かない。自分でもそれをわきまえ、あの昴司会から幹部として勧誘されながらも断り続けているという。

 だが……自己中心的な冷血漢という噂は違うように思う。眼を見て、わずかな言葉を交わしただけだが、この男はそのような部類ではないように感じた。

「君はそこのお嬢さんの仲間かな?そうでないなら逃げていいよ。今なら追わないからさ」

「生憎だが、たった今、その娘は俺の衛要[ウェイヤオ]となった。保刃[バオレン]として逃げるわけにはいかんな」

 倍の数の敵に囲まれながら、まったく動じずに告げる。その姿はたとえ彼が『鉄盾[ティエジュン]』でなくとも、この場を任せるには十分だった。

「ふうん。じゃあここで死ぬんだね」

 私の雇った保刃[バオレン]はその言葉にわずかに気を揺らした。無論それは自らの身を案じてのことではない。自分の敵がこの青年一人であることを悟り、残りの敵が全て私に行くことを心配したのだ。

 だがそれは無用な懸念だ。この青年と比べれば、他の男達は並の剣士でしかない。少なくとも一方的に切り伏せられることはあるまい。

「心配は無用だ。私は持ちこたえるゆえ、そなたはそこの牛蒡をへし折っておれ」

 飄々としているように見えた青年からわずかに怒りの気配がする。

 実戦の場において怒り、焦り、迷いはそのまま死に繋がる。この青年もかなりの遣い手だが、今の挑発にわずかに乗ってきた。

「お嬢さん、あなたは後でたっぷりと苦しんで死ぬことになりますよ」

 その一言が余計だ。小娘の挑発など無視しておけばよい。私はさらに煽った。

「やれるものならやってみるがよい」

「ではまずは」

 その一言で戦闘が開始された。

猷示[ユウシ]

 フッ、と牛蒡青年の姿がブれた。まるで何かの冗談のような速度で右に回り込んでくる。同時に右後ろから跳ね上がってくる剣先!

 ギィン!

 俺は軽く身体を右に回し、必要最小限の動きでその刃先を受けた。瞬間、鍔に絡めて牛蒡の剣先をすりあげる。

「ヒュ」

 吐息と共に青年は身を引いた。わずかに俺の剣撃を躱し、距離を取る。俺は息を整える暇を与えずに間合いを詰めた。八双から敵の右の肩先に刃先を送り込む。下からすくい上げるような動きで敵の剣が跳ね上がり、俺の刀を受ける。

 左手だけで柄を握り、反動で返る刀を素早く構え直す。次の瞬間、左の肩先に二の太刀。

「くっ」

 敵はまた受けた。俺の刀は厚重造の剛刀だ。青年の持つ細身の刀くらいなら両断することも出来る。だが彼はわずかにその力を逸らしながら受けることで見事に俺の攻撃を受け流していた。

 間合いを空ける。しきり直しだ。

 俺とこの牛蒡青年との戦いと同時に、少女と残りの敵との戦いも始まっていた。眼は青年から離さず、気配だけでその戦いの様子を探る。が、どうやら少女はまったく退かずに戦っているらしい。

 と、牛蒡が口を開いた。

「今は僕と戦っているんですよ。向こうのことはどうでもいいでしょう?」

「そうはいかん。衛要[ウェイヤオ]だからな」

 会話しながら相手の隙を狙う。一瞬でも気が緩めばそれは死への最短進路だ。

「ははは。でも、意外とやりますね、君」

「これが取り柄だからな」

「それに……鎖か何か着込んでますね。重くありませんか?」

 ほう。気づいたか。

「子供の頃からなんでね。慣れたよ」

 俺の流派では戦闘時のみならず、常に鎖子を着込むことになっている。鉢金・手甲・臑当ても欠かさない。装甲など怯懦の現れ……などとは絶対に言わない。装備のあるなしで生死が左右されるのであれば、出来る限りのことをするのが当然である。

 だから俺は常に細い鎖を編み込んだ服を着て、鉢金などもつけたまま行動する。当然、今もそうしている。重いし暑いし、ついでに額の生え際がちょっとだけ気になるが、そのために命を拾ったことは一度や二度ではない。

「その刀に重装備……そしてその腕。君、『鉄盾[ティエジュン]』ですか」

「知っているのか」

 『鉄盾[ティエジュン]』は保刃[バオレン]としての俺の通り名だ。別に俺が名乗りはじめたわけじゃないが、いつの間にかそんな通り名が通用するようになっていた。だが堅気の人間が知っているほどの名ではない。つまりはこの男は「業界」の人間というわけだ。

「これは面白いですね。行きますよ」

「来い」

 俺は目の前の敵に集中した。今度は本気だ。あの少女が危なくなったら手助けしよう、などと考えていては生きてはいられない。

 フォン

 風の鳴る音と共に青年が踏み込んだ。先ほどよりもさらに速い。まさに疾風のような踏み込みと斬撃。

 下から二撃。いずれも腕を狙っている。胴体は鎖を着込んでいるから、青年の使うような切れ味を最優先にした斬撃は効果は薄い。だが同じように鎖と手甲で守ってはいても、腕にこの勢いの斬撃が直撃すれば骨が砕ける。そうなれば終わりだ。

 ガ、ガン!

 ヘビのように絡みついてくる剣を受ける。俺の剣が防御の為に下がったその一瞬、敵の剣が頭上に翻った。

 今までの技とは全く違う、真っ向からの力のこもった一撃!

「ヤッ!」

 その剣尖が俺の首根に食い込む一瞬前に、俺の放った突きが

 ズドン

 鈍い音を立てて青年の胸を貫いていた。

 チリリリ……

 むき出しの首筋を割くはずだった剣尖は、わずかに逸れて俺の肩先を滑る。

「ガハッ……」

 心臓を貫かれた青年は、それでも目を上げ、口から血を溢れさせながらもなんとか笑みの形に唇を歪めると、膝をついた。

 命の絶えた青年の冥福を一瞬祈る。そして俺は三人の遣い手と戦っている雇い主の方へと振り向いた。

ラティア

 三人の男達のうち、二人が私の左右に回り込む。残りの一人はやや下がる。左手が剣を持ち、右手は左の袖に入っているところを見ると、どうやら投短剣を構えているらしい。前衛の二人が危なければそれを投げて援護する役目だろう。連携に慣れた動きだ。

 敵の最終的な目標は、今、私の後ろにいる少女だ。さすがは棉家の姫だけにこの状況でも悲鳴の一つも上げず、気丈にふるまっている。その彼女を連行することが彼らの任務であろう。となればまずは私と保刃[バオレン]を倒すのが優先される。私達が時間を稼いでいる間に少女が逃げても追いつくのはたやすいことだ。

 問題は私と戦っている間に手の空いた者が少女を狙うことだが、これはほとんど考えなくて良い。そんな事をすれば私が命を捨てても少女を狙う敵だけは殺す事はわかっているだろう。彼らにしてみれば何もそんな危ない橋を渡らずとも、三人でもって確実に私を斃し、その後に少女を捕まえれば良いだけの事だ。

 逆に言えば、私はただこの三人を倒す事だけを考えれば良い。

棉紗[ミアンシャ]、心配は無用だ。すぐに済むゆえ」

「はい!」

 かすかに震えた、だが精一杯の声。何よりの声援だ。

 私は意識を切り替えた。人間から、拳士へ。

「ハッ」

 右の敵に一歩踏み込み、だがその反動を利用して左の敵へと一気に間合いを詰める。さすがにこの程度の動きには慌てず、左の剣士が剣を振り上げた。

 だが私はそれも無視してさらに軌道を変える。目標は一番奥、正面の剣士!

「なっ」

 まさか自分に向かってくるとは思わなかったのだろう、わずかに気のゆるみがあったその剣士は、それでも判断は誤らずに投短剣を撃ち放った。

 だがそんな事はこちらも読んでいる。

 鋭い音と共に投短剣は私の鴛鴦鉞に弾かれる。そのまま踏み込んだ私はすれ違いざまに剣士の首根を割いた。

 勢いを殺さずに駆け抜け、左足を軸としてくるりと左回りに翻身する。血飛沫を上げながらくずおれる剣士には構わず、間合いを詰めてくる残りの二人へと対峙する。

 左側の鈍く光る銅製の手甲を付けた剣士が、私の左の肩口に凄まじい斬撃を打ち込んできた。右に回れば躱しやすいが、そちらに逃げれば右側の剣士が避けようのない一撃を放つだろう。

 もちろんその瞬間、そんな事を考えていたわけではない。実戦の場では考えている時間などない。ただ身体に覚え込ませた動きだけが勝敗を分ける。

 右足を深く引き、それを軸として私は右回りに翻身した。ほぼ一回転して斬撃を躱し、すさかず跳ね戻ってきた剣を右手の鴛鴦鉞で受ける。同時に剣士の喉に左手の鴛鴦鉞をからみつけながら諸足に左脚をかけ、剣士自身の回転運動の力を利用して、投げた。

 一切の受け身も取れず、剣士は後頭部を地面に叩きつけられる。鴛鴦鉞の刃と地面との間で首の骨を砕かれ、剣士は絶命した。

「チェェェイ!」

 真上からの一刀。

 残りの一人が渾身の力で叩きつけてきた斬撃を、私は片膝をついた姿勢のまま、左右の鴛鴦鉞を交差させて受ける。

 ギイィィン!!

 真昼だというのにはっきりと火花が散り、私の右手から鴛鴦鉞がはじき飛ばされた。

 だがこれはわざとだ。敵の意識が一瞬その弾かれた武器へと向かう。その瞬きするほどの間の、ごく僅かな隙が何よりも大切だった。

 残った左の鴛鴦鉞を敵の刀に絡め、私は低い姿勢のまま敵の懐へと潜り込んだ。分厚い皮の胸当てに右掌を当てる。右足は深く踏み込み、左足は引いた姿勢で、剄を発した。

 足の裏から螺旋状に発生した剄は身体を通って増幅され、うねりながら掌に集中、そして頑丈な皮鎧を軽々と浸透して敵の内臓に叩き込まれ、その心臓の動きを止めた。

猷示[ユウシ]

 振り向いた時にはもう一つの戦いは終わっていた。立っているのは少女一人。敵の剣士三人はいずれも地面に倒れている。全員事切れているのは明白だった。

「手傷など負ってはいないか」

「それは俺の台詞だ」

 どうやらこの少女は俺の思っていた以上に遣うらしい。この僅かな一時に屈強な剣士を三人屠るというのは常人の技ではない。下手すると俺も勝てないかもしれん。

棉紗[ミアンシャ]、終わったぞ」

「は、はい……」

 緊張の糸が切れたのか、カタカタと震えている女の子、棉紗[ミアンシャ]に少女は手を差し伸べた。

「さてと」

 俺は刀を懐紙で丁寧に拭うと鞘に収めた。周りを見回す。

「この連中はどうしようかね」

「このままにしておくわけにはいくまいから埋葬する。手伝ってほしい」

「わかった」

「だがその前に行かねばならぬところがある」

 少女はそう言うとしがみつくようにしながらも気丈に自らの足で立っている棉紗[ミアンシャ]を辛そうな眼で見た。

「伊雷殿のところに行こう、棉紗[ミアンシャ]

「……はい」

「どこに行くんだ」

「この子の護衛がちょっと先にいるのだ。この者達と戦っておったのだが……」

 なるほど。斬られたか。

「もしかしたら……まだ息があるかもしれん」

「じゃあ急ぐぞ。案内を頼む。その娘は俺が抱えていく」

「いや、私が抱える。そなたは周りを警戒してくれ」

 少女はそういうと棉紗[ミアンシャ]を背負い、走り始めた。

 いくらか走ったところにその男は倒れていた。

 少女の背中から下ろされた棉紗[ミアンシャ]は泣きながら血に染まった男に抱きついた。衣服が血に汚れるのも構わず、ひたすら名前を呼ぶ。

 男の目がわずかに開いた。

「伊雷!伊雷!」

 だがもうそれが精一杯のようだ。言葉も出ず、おそらく目も見えていない。この男はもう死ぬ……むしろまだ息があるのが不思議なくらいだ。きっと幼主を案じて最後の力を振り絞っていたのだろう。血に染まった一筋の道は、彼が致命傷を負いながらも這い進んできたあとに違いなかった。

「伊雷殿![リャン]武装商隊のラティアだ!棉紗[ミアンシャ]は私が必ず助ける、安心せよ!」

 少女が男の耳の傍で叫ぶ。暗黒の縁にいる男にその言葉が届いただろうか……。

 まぶたが閉じた。

「伊雷……」

 しばらくその死に顔を呆然と見ていた棉紗[ミアンシャ]が、やがて声を上げて泣き始めた。遺体に取りすがり、その可愛らしい顔を血で赤く汚しながらしゃくり上げる。

 少女……いや、ラティアがこちらにやってきた。

「しばらくそっとしてやろうと思う」

「ああ。こう言う時は他人に出来る事などなにもないからな」

 俺たちは少し離れたところに立って、棉紗[ミアンシャ]が泣きやむのをただ、待っていた。

 やがて棉紗[ミアンシャ]が立ち上がった。

「ラティアさん。伊雷を埋葬してあげたいのです。手伝って頂けますか」

「もちろん。そなたも手伝ってくれ」

「ああ」

 最後まで主人を守り、勇敢に戦った戦士を埋葬するのに否やはない。

 墓は林の中、ひときわ目立つ大きな樹の根本にした。すこし窪みになっていたところを短剣でさらに掘り返し、大男をなんとか埋める。深く埋めてやる事はできなかったが、それでも野ざらしよりはいいだろう。

 俺たちはそれぞれのやり方で戦士の冥福を祈るとその場所を後にした。

 泣き疲れて眠ってしまった棉紗[ミアンシャ]をラティアが背負い、俺たちは戦闘の終わった小道へと戻っていた。

「で、あんたは[リャン]の関係者か」

「未熟ながら[リャン]武装商隊の隊長を勤めている。そなた、[リャン]を知っているのか」

 おいおい。

保刃[バオレン][リャン]の名を知らなきゃもぐりだな。で、隊長だと?いつ代替わりしたんだ。[リャン]聳庚[ソンゲン]が死んだとは聞いていないが」

聳庚[ソンゲン]は私の祖父だ。今年から孫の私が隊長の座を引き継いでいる。ちなみにまだ祖父は達者で生きておる」

 なるほど。そう言われてみればこの娘の持っていた武器は[リャン]聳庚[ソンゲン]の得意としていた鴛鴦鉞だ。直接あの高手に会った事はないが、三日月を組み合わせたような特異な形のその武器は有名だった。それにこの娘の功夫は凄まじいものだった。[リャン]の一族ともなれば納得できる。

「そなたこそ、あの『鉄盾[ティエジュン]』であろ」

「あんたこそ俺みたいな輩を知っているのか」

 あの青年といい、この娘といい、俺も有名になったのかな。

「私とて商隊を率いるものだ。腕利きの保刃[バオレン]を知らぬわけがあるまい」

「あんたの祖父殿に比べれば取るに足らん雑魚だよ」

「あんた、は止めてもらおう。私はラティアレーム・[リャン]だ。ラティアでよい」

「わかった。俺の事は猷示[ユウシ]と呼んでくれ。ラティア、事情は後ほど説明してもらうという事でいいか」

「……そうだな」

 なんとなく煮え切らない口調だった。

 俺たちは元の場所に戻ると、四人の剣士達の遺体を埋葬した。敵とはいえ堂々と戦って破れた戦士だ。道ばたで腐るままにしておくのは忍びない。それに人死になど珍しくないご時世とは言え、さすがに四人も剣士が死んでいれば一大事だ。

 正式な埋葬も受けられない彼らを哀れとは思うが、それは一歩間違えば俺たちの姿だった。この世界に生きる者の避けられない最後でもあるのだ。

 だがそこで俺はあまり見たくないものを見てしまった。

「おい、この紋章なんだが」

 俺が差し出した金属の紋章を見て、ラティアは少しだけうろたえた。あの細い青年の遺体から出てきたものだ。

「ラティア、こいつらが何者か知ってたな?」

「まあ……な。想像はしておった」

 蠍を踏みつける鷹を意匠した紋章。この紋章を持つことを許された剣士といえば、その所属は黄鋭[ファンルイ]以外にない。

「どうりで腕が立つと思った。残りの連中はなんだ。稜曄[ロンファ]の特務か」

「私もそれは知らぬ。知っている事は話すが……」

 ラティアはいくらか後ろめたそうに俺を見た。

「それとも黄鋭[ファンルイ]が関わっているとなれば、保刃[バオレン]は辞めるか」

 それは当然の話だった。

 稜曄[ロンファ]皇帝の親衛隊、黄鋭[ファンルイ]。最精鋭の剣士で構成された稜曄[ロンファ]最強の部隊であり、「皇帝の家族」とまで言われる存在だ。その要員を殺したとなれば彼らは誇りにかけて復讐を果たすだろう。どうやらラティアは敵が黄鋭[ファンルイ]であるという事を知っていながらこの件に関わったようだから覚悟は出来ているだろうが、俺はそんな事は知らなかった。

 黄鋭[ファンルイ]を敵に回すなど、本来ならいくら金を積まれても引き受ける仕事ではない。第一、黄鋭[ファンルイ]と特務警察が追っているという事はこの娘達は皇国の敵だ。事情はどうあれ、法的には俺は国家反逆の罪を負う事になる。

 そんな事を言う暇がなかったのは確かだが、それでもラティアはその事は言わずに俺を「雇う」と言ったわけだ。ラティアが後ろめたく思っているのはそう言う事だろう。なるほど、さっき妙に口ごもっていたのはこれか。

 俺はいわば巻き込まれただけなのだから、今なら逃げてしまえば何とかなる。きっとラティアは俺が関わっている事は黙ったまま死ぬだろう。

「先ほどの仕事に対する十分な謝礼は出来ぬが、私の持っている金はすべて渡す」

 そう言いながら腰の革袋を開けようとしたラティアを俺は止めた。

「勝手に俺の仕事や報酬を決めるな」

「え……」

「俺はこれでも一応剣士だし、保刃[バオレン]だ。それに燎帝[リアンティ]には色々と言いたい事もある。黄鋭[ファンルイ]程度に怯えて逃げるなぞ出来んな」

猷示[ユウシ]

「それに俺はそんなに安くない。報酬はきちんと[リャン]から払ってもらうから覚悟しておけ」

「はははっ!」

 ラティアが笑った。向日葵のような笑顔だった。

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人の山田様が見てる

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