第二段 逃亡する四人

ラティア

「じゃあ俺たちの泊まっている宿に来てもらおうか」

 猷示[ユウシ]は意外な事を告げた。

「俺たち?猷示[ユウシ]には連れがいるのか」

「妹が一人いる」

「妹!」

 私は思わず棉紗[ミアンシャ]と声を合わせた。それは予想外の言葉である。

「名前はなんというのだ」

菊花[チーファ]だ」

「妹って幾つですか?」

「十三になる」

「武術の腕は」

「あいつは武術にはほとんど興味はない。だが頭はいいぞ。正直に言えば俺が保刃[バオレン]としてやっていけているのは菊花[チーファ]のおかげだ」

 ほほーっと私達は顔を見合わせる。そして二人して猷示[ユウシ]の顔を見て、ちょっとだけ眉をしかめた。

「言っておくが、菊花[チーファ]は母親似だ。俺には似ていないからな」

「い、いえいえ。別にそう言うわけじゃ」

「そうだ、目つきが悪いとかそう言う事を思ったわけではないぞ」

「しっかり言っている」

 猷示[ユウシ]はやれやれ、と首を振った。

 まあ確かに猷示[ユウシ]は目つきが悪い。

 改めて猷示[ユウシ]を見た。鋭い目つき、太い眉、硬そうな髪の毛。とどめに左の眉から頬にかけて炎の形の入れ墨が入っている。醜男とは言わないが、美男子とは言えまい。夜道で会えば目をそらす方が無難な顔だ。

 だが私が聞いた話でも……そして実際に会って話してみればなおさら、悪い男ではないとわかる。

「ここだ」

 猷示[ユウシ]が案内した宿は、はっきりいって安宿だった。壁の漆喰は剥がれかけているし、屋根には草が生えている。

 だがよく見ると窓には頑丈そうな格子がはまり、戸口はしっかりとしている。壁もぼろぼろに見えるが、実際にはかなり分厚いものだ。さすがに一流の保刃[バオレン]が選ぶだけに見かけ倒しの宿ではないらしい。

 そして中には熊がいた。

「亭主、猷示[ユウシ]だ。今戻ったが、客人が二人いる」

「おうわかった。なんだ、嬢ちゃん二人か。菊花[チーファ]ちゃんが妬くぞ」

 熊が人語をしゃべった。というかどうやらここの主人らしい。

「それと一騒動あっただろう。そんな格好で菊花[チーファ]ちゃんの所に行くのはどうかと思うぞ」

 そう言われて私は自分たちの格好に気が付いた。

 猷示[ユウシ]や私の服は返り血と泥で汚れているし、棉紗[ミアンシャ]様は伊雷殿の遺体に抱きついた時に血塗れになっていた。さすがに顔などは拭いてあげたが、服の汚れは隠しようがない。

「嬢ちゃん二人は風呂に入ってこい。替えの服は簡単なものなら用意できるからな」

「それがいいな。風呂場はこちらだ」

 猷示[ユウシ]が奥へと歩いていく。

「まさか一緒に入るつもりではあるまいな」

「そんな事ができるか。俺の事はいいからお前達は血を落としてこい」

 冗談だったのだが、猷示[ユウシ]は予想外にうろたえた。実はあまり女に慣れていないのだろうか。まあ私とてこの年まで家族以外の男性と手を握った事すらろくにないのだが。

 風呂場は意外にも広く清潔だった。しかも榎薙の木の浴槽にはなみなみと湯が張られている。ここの十倍の宿賃を取るような宿でもここまで上等な風呂場を用意している宿など滅多にないはずだ。

 外見は荒れているが、実はかなり良い宿らしい。

 服を全て脱ぎ、浴室に入る。もちろん最低限の武装は身につけている。もし猷示[ユウシ]やあの熊亭主が不埒な事を考えているとすれば気休めにもなりはしないが、不思議な事に私は会ったばかりのあの者達を完全に信頼していた。

「ラティアさん、背中を流しましょう」

 ずっと黙っていた棉紗[ミアンシャ]が湯桶を手にして私の傍にやってきた。

「そうか。では頼む」

「はい」

 ざあっ、と湯が背中にかけられる。熱すぎずぬるすぎず、良い温度の湯だ。

「……ラティアさん」

 小さな、すこし震える声。

「どうしてあそこに?」

棉紗[ミアンシャ]を助けに来た」

「どうして……」

「棉殿から頼まれておったしな。何よりも友人が難儀しているのに見て見ぬふりなどできぬ」

「ラティアさん……。ありがとうございます」

 涙声の棉紗[ミアンシャ]

「こらこら、泣いていては身体が冷えてしまう。次は私が背中を流してやるゆえ手早く頼むぞ」

「は、はい。任せてください」

 まだ少し涙ぐみながら、棉紗[ミアンシャ]が糠袋をコシコシと私の背中にこすりつけてくる。なかなかよい手つきだ。

棉紗[ミアンシャ]、背中を流すのが上手だな」

「はい、よくお祖父様からもお褒めの言葉をいただいていました」

「そうか。なかなか難儀な方だったが、もう会えぬとなると不思議と懐かしいな」

「ふふ、そうですね。お祖父様は身分に厳しい方でしたから。でも、あの後はよく[リャン]の方々のお話をなさってましたのよ。ラティアさんの事も褒めておられたわ」

「それは光栄だな」

 私は棉紗[ミアンシャ]の祖父、荊筒[チントン]の前領主殿の渋面を思い浮かべた。貴族にあらねば人にあらず、というようなガチガチの身分主義者だったが、死線を共にくぐり、最後には過分なほどの報酬と照れながらの詫びの言葉をくれた人だ。今となっては懐かしいくらいだな。

「では事情はご存じなのですね」

「ああ。もし違うところがあれば言ってくれ」

 私は棉紗[ミアンシャ]に自分の知る「事情」を語った。[リャン]の監察方の情報はいつもながら確かで、棉紗[ミアンシャ]の言う事と一致していた。

「では猷示[ユウシ]には私から説明する」

猷示[ユウシ]様……あの方は信用できるのですか?」

 棉紗[ミアンシャ]は不安そうだ。

「そうだな。棉紗[ミアンシャ]は『鉄盾[ティエジュン]』という保刃[バオレン]の話は聞いた事はないか」

「いえ、存じません」

「そうか。ああ、次は私が背中を流してやる番だな」

 私は遠慮する棉紗[ミアンシャ]を小椅子に座らせてその小さな背中に湯をかけた。海棉に石鹸を擦りつけ、何度か握るとふわふわと泡が立つ。石鹸もなかなか良いものを使っているらしい。

「あの男は有名な保刃[バオレン]でな」

 貴族の姫様の肌を傷つけないように優しく海棉で擦る。その柔らかい肌は確かに少女のものだが、年のわりに細い身体だ。逃亡生活で痩せてしまったのだろうか。

「気難しくて仕事を選ぶ男らしいが、いったん引き受けた仕事はどんな困難なものであってもやり遂げるという。特に『守る』という事にかけては右に出る者がいないという評判だ」

「それで『鉄盾[ティエジュン]』ですか」

「ああ」

 私は泡を流してやると、棉紗[ミアンシャ]と共に浴槽に入った。

 私はゆっくりと身体を伸ばした。大きめの浴槽は私と棉紗[ミアンシャ]が入ってお互いに手足を伸ばしても十分な大きさだ。身体から疲れが流れ出していくような気がする。

「ただ、あの鉄盾[ティエジュン]がなぜ黄鋭[ファンルイ]が追ってきていると知りながら味方になってくれているのかはわからぬ。金目当てと言うわけでもなさそうだし」

 あの時のやりとり……『燎帝[リアンティ]には色々と言いたい事もある』……何か、皇国に含むところがあるのだろうか。

「ラティアさんの事が好きになったんだったりして」

 思わぬ事を言われて私は浴槽で溺れそうになった。

「ま、まさか!そんなわけがあるまい」

「何でですか?ラティアさんはとても綺麗です。強いし、素敵です。私が男なら絶対好きになります」

「そ、そうか」

 真っ直ぐな瞳にちょっと照れてしまう。でも「綺麗」はともかく、「強い」は男性から見て魅力的かどうかはわからぬな。

「それはそうと、これからどうするか考えないと」

 なんとなく妙な方向に話が行きそうになったので、私は話の筋を元に戻した。誤魔化しではない。幸い棉紗[ミアンシャ]はその話に固執する事はなかった。

「はい」

猷示[ユウシ]に相談してみよう。『鉄盾[ティエジュン]』の名が伊達でなければ何か考えてくれるかもしれない」

 私は不安そうな棉紗[ミアンシャ]を抱き寄せた。

「心配するな。必ず助ける。ラティアレーム・[リャン]の名にかけて」

菊花[チーファ]

 兄様は困った人だ。

 保刃[バオレン]として仕事を選ぶとか、報酬があまり期待できない仕事が多いとか、そもそも仕事をあまりしないとかそう言う事はまあいいとするわ。

 一番の問題は、非常に困ったところの多い依頼者ばかりを選んでくるところ。だいたいが厄介な敵を持った人達ばかりで、そうでなければ人格に色々と問題のある人か、妙な職に就いている人か……。

 それにしても今回は度が過ぎていると思うのだけど。

黄鋭[ファンルイ]……ですって?」

「あの紋章は間違いないな」

 兄様が頷いた。

「説明して頂きましょう」

 私は二人の女性の方へと目を向けた。

 一人は私と同じくらいの歳の女の子ね。親しい方を亡くされたばかりということでまだ少し沈んでるみたいだけど、物腰からしてかなり良い家柄みたい。先ほど丁寧な挨拶をされて、私もちょっと困ってしまったわ。こちらはそんな上品な挨拶なんて知らないもの。でもそれ以外は特に気になるところはないわね。

 問題はもう一人の方よ。

 褐色の肌に大きな瞳。豊かな黒髪を三つ編みにして後ろに垂らしてる。戦闘で汚れたという事で、宿の亭主が用意したらしい普通の庶民の女性が着るような粗末な服を着ているけど、とても綺麗な体つきなのははっきりとわかるわ。

 それにすごく華やかな美人だわ。可愛いけれど美しい、という人ね。ここまで綺麗な人はほとんど見た事がないくらい。

 しかもあの[リャン]武装商隊の跡継ぎ……という事は実質的には領主の姫という事になるじゃない。

 つまり。

 「私の」兄様にとって大変危険な……いえ、はっきり言えば私にとって極めて危険な存在よ!兄様も男の方なんだから、あんな美人が傍にいれば心動かぬとも限らないわ。これは由々しき事態よ。

 そう。私は兄様が好き。世界の誰よりも兄様が大切だと思ってる。できればこういう女は兄様の半径一公里以内にはいてほしくない。

 とは言えなにやらただごとならぬ事情があるようだし、あの黄鋭[ファンルイ]とすでに剣を交えたとのこと。そして私達にとって、稜曄[ロンファ]皇帝とその親衛隊には特別な意味があるわ。話くらいは聞く必要があるわね。

「説明はするが……猷示[ユウシ]の妹君に聞かせて良い話なのか」

「ああ、まだ話していなかったな」

 兄様が決まり悪そうに笑った。

「実は俺が『鉄盾[ティエジュン]』なんて呼ばれているのは全部菊花[チーファ]のおかげでな。作戦とか段取りとかは全部菊花[チーファ]がやっているんだよ」

「ほう」

 ラティアという人はちょっと目を見張り、でもすんなりとその事を受け入れた。

「これは驚いた。軍師の才があるのか」

 むしろ驚くのはこっちの方だわ。そんなにあっさりと信じた人は初めてよ。

「兄様がからかっているとは思わないのですか?」

「いいや。私は未熟な身だがそれなりに人は見る。そなたの気の充ち様はそこらの子供のものではない。それに猷示[ユウシ]はそのような悪質な冗談を言う男ではあるまい」

「こんなにあっさりと認めたのはラティアが初めてだな」

 感心したように兄様が頷く。面白くないけれど、その事には同意するわ。ラティアが馬鹿だとは思えないし、人を揶揄するような人間だとも思えないから、本気で認めているんでしょうけど……普通、なかなか納得しないものなのにね。

 まあわかってもらえるのなら話は早いわ。

「それでは説明して頂きましょう。今回の事はどういう話なのか」

「まずは昨年の話からだ」

 ラティアの話は次のようなものだった。

 昨年、[リャン]武装商隊は自領から皇都までを護衛してほしいという依頼を受けた。依頼主は荊筒[チントン]の前領主。長年商売上のつきあいがあり、本来ならば[リャン]武装商隊が護衛任務など受ける事はないのだが、特例として引き受ける事になったのだ。

 荊筒[チントン]の前領主は二十年ほど前に中央の不正に我慢が出来なくなった。いくら税を納めてもそれは中央の役人が私物化するのみで国の為には使われない。そのために自らの領地の収穫を捧げるなど理不尽にもほどがあるということで、ついに一切の税を納めないようにしたのである。

 だが彼はその税を自らの懐に入れることなく、いつかは稜曄[ロンファ]が新生すると信じて蓄えていた。そして神領大革命により、稜曄[ロンファ]は蘇ったと彼は信じた。稜曄[ロンファ]への帰属を望み、恭順と忠誠の証として今まで稜曄[ロンファ]の法に従って徴収していた税金を全て献上する事にしたのである。

 だが彼の息子とその友人や部下達は違う考えを持っていた。彼らは今更稜曄[ロンファ]に尻尾を振る事はないと考えたのだ。そして前領主が皇都に行くのを場合によっては殺害してでも阻止するつもりだった。そこで前領主は[リャン]武装商隊に護衛を依頼したのである。

 その時に彼は孫である棉紗[ミアンシャ]も連れて行った。愛孫に皇都を見せてやりたいということもあったが、同時に息子に対する牽制でもあった。自分に手を出せば棉紗[ミアンシャ]にも危険が及ぶという、いわば人質である。それだけこの親子は対立していたということだ。

 だが両者は憎みあっていたわけではない。父は有能で勇敢な息子を誇りに思っていたし、息子は父を尊敬していた。しかしだからこそその対立は深くなったとも言える。

 この時にラティアと棉紗[ミアンシャ]は親しくなった。任務は無事に終わり、荊筒[チントン]稜曄[ロンファ]への帰属を認められた。

 ところが三星節ほど前に前領主の息子が反乱を起こした。彼は父親でもある前領主を殺害、稜曄[ロンファ]に対して反旗を翻したのである。無論稜曄[ロンファ]がこれを黙ってみているわけもなく、即座に討伐軍が送られた。荊筒[チントン]軍はそれでも二星節ほどは持ちこたえたのだが、最終的に軍は全滅し、荊筒[チントン]市は陥落した。

 棉紗[ミアンシャ]の父親、最後の領主は親族にそれぞれ護衛を付けて各地に落ちのびさせ、自らは城と運命をともにした。反乱軍の一族は全員処刑が当たり前である。棉紗[ミアンシャ]荊筒[チントン]軍の中でも剣豪として名高い伊雷という剣士とともに逃げていたのだが、ついに今日、稜曄[ロンファ]の追っ手に捕捉されたのだ。

 ラティアは荊筒[チントン]の反乱と棉家の一族が逃げている事を知り、友人の危機を放っておけず、また前領主から『いざという時は頼む』と言い残されていたこともあって助けに来たのである。

「ですがそれは[リャン]武装商隊として稜曄[ロンファ]に逆らう事になりますよ」

「わかっておる。離隊届けは置いてきたが、それだけで稜曄[ロンファ][リャン]を無関係としてくれるわけはあるまい」

「無責任なのではないですか?あなたは[リャン]の隊長なのでしょう。あなたの行動で他の隊員だけじゃない、[シャオ]まで稜曄[ロンファ]の敵になるのですよ」

「それに関しては私も考えた。だが私の祖父はこのような時に一族や商隊を言い訳にするな、と教えた。自らが正しいと信じた事をするようにと出発前にも訓辞を受けた。私はその教えと自分の信念に従う」

 ラティアは言い切った。

「あなたの祖父殿はずいぶんと肝の据わった方のようですね。普通あなたのような人間を隊長にするなど非常識極まると思いますが」

「おいおい」

 兄様が困ったように私に声をかけるが無視する。

「それが[リャン]であるからな」

 ラティアははっきりと喧嘩を売った私に対して、素直に頷いた。余裕を装っているのかと思ったけど、どうやら本当に気にもしていないみたい。さらに腹が立つけど、清々しいくらいの態度である事は間違いないわね。

 ていうかこれじゃ喧嘩を売った私の立場がないじゃない!

「……状況はわかりました。それで、これからどうしたいのですか」

 私は今度は棉紗[ミアンシャ]の方を見た。先ほどから黙って話を聞いてるけど、実際の主役はこの子だわ。

「仇を討つのですか?お家再興ですか?」

「仇は討ちません。それを言うならばお父様はお祖父様の仇です。それに棉家はすでに滅び、家臣も財産もありません。今更再興など考えてはおりません」

「では逃げますか」

 少し意地悪な質問。一族を滅ぼされ、恨みがないはずがないわ。だけど自分には仇を討つ力も家を再興する当てもない。結局お姫様には逃げるしかできないでしょう、という……自分でもわかる、嫌味の混じった質問に、だが棉紗[ミアンシャ]は素直に首を縦に振った。

「……はい。正直に言えば私も何をすればよいのかわからないのです。ですが伊雷は私を逃がす為に命を捧げてくれました。ですからまずは生き延びようと思います」

「……」

 反省。正直、さっきの私の態度を謝りたい。ラティアに対する反発をこの子にぶつけてしまった。要は八つ当たりじゃない。情けないわ。

 でもさすがは棉家の姫というべきかしら。まだ十を幾つも過ぎていないはずなのに、何が大切なのかわかっているのね。

 そうね。ラティアは気に入らないけれど、この子は私も助けてあげたい。

「兄様はこの方々を助けると決めたの?」

「雇われたからな。で、どうすればいい」

「そうね」

 私は現状から取り得る選択肢を頭の中で列挙した。

「いくつか手があるわね。一つ、とにかく逃げる。一つ、[リャン]武装商隊と合流して戦力を増強した後で追っ手と戦う。一つ、事故でも偽装してこの子が死んだ事にする」

「商隊を巻き込む事はできぬ。それに彼らは稜曄[ロンファ]と戦いなど望まぬだろう」

 ラティアは少しだけ苦しそうだった。覚悟と信念を持って出てきたとは言え、やはり[リャン]の隊長として望まれない選択であった事が苦しいのだろう。

「戦力が期待できないなら残りの二つね」

「偽装は無理だな。俺たちのような素人の偽装が黄鋭[ファンルイ]と特務に通用するはずがない」

「確かに。そうなると現実に採用できる案は一つね」

「逃げる、か」

「そう言う事。で、どこに逃げるかだけど」

 私は棉紗[ミアンシャ]に問いかけた。

「あなたは何か心当たりはないの?知り合いか縁者がいるところ」

「はい……。そうですね、専揚に大叔父様がいらっしゃいます。富池に叔母様が嫁がれましたし、保檜にお父様の友人の湾暁様がおられますわ」

「じゃあそこには行かない事ね」

「……え」

「どうしてだ?」

 棉紗[ミアンシャ]はともかく、兄様とラティアまで不思議そうな顔をしているわ。どうしてこんな自明の事がわからないのかしら。

稜曄[ロンファ]の追っ手はそんな事は調べ上げてるでしょう。当然使者が行ってるはずよ。そこへの道も危険だわ。他には力になってくれそうな人はいる?いるならそこは出来る限り避けなくちゃ」

「なるほど、そう考えるのか。確かにそう考える事はできるな」

「そんな事もわからないのに[リャン]の隊長という職は務まるのね」

 ここぞとばかりに私は追撃した。これでラティアが怒り出して出て行けば万々歳なんだけど。

 でも、ラティアは本当の事を言われたからと言って簡単に怒るほど器量は貧しくなかったみたい。

「私はどうも戦略眼というものに欠けておる。武や兄がいなかったら到底隊長など出来ぬ。そなたは頭が切れるようだから、頼りにするぞ」

 ううーむ……。ここまで素直に年下の私に頼られると、なんだか私の器の小ささが目立つだけじゃないの。兄様にも恥をかかせてしまうし……仕方ないわね、ここはひとまず矛を収めましょう。

 もちろんラティアとなれ合うつもりはないけれど。

「まずはなるべく稜曄[ロンファ]から離れることね。知り合いに心当たりのある場所を避けて地方の大きい都市に行きましょう。隊員が斬られたとなれば黄鋭[ファンルイ]は手抜きはしないでしょうけど、子供一人の為にかかり切りになるほど暇じゃないわ。二、三星節も逃げ切れば諦めるでしょう」

「では今からこの街を出るか」

 ラティアは元気だ。だけど。

「そこまで慌てる事はないでしょ。この近くの特務警察の基地は安選にしかないわ。報告が行っても部隊を組織して出発できるのは早くても明日よ。双楷[シュアンチエ]まで来るのは明日の夕方。明後日までにこの宿を探し当てられたら上等でしょう。その娘も疲れてるだろうし、私達だっていきなり出て行く準備もできてないわ。今晩一晩は休んで、明日の朝にここを発てばいいんじゃない?」

「近くに別働隊がいるかもしれんぞ」

「子供と護衛のたった二人の為に?黄鋭[ファンルイ]がいる事だけでも驚きなのに、別働隊までいるとは考えられないわ。もしいたとしてもこの宿を探り当てるのに一日で足りるとは思えないわね」

「なるほど……」

 共に納得するラティアと兄様。なんだか腹が立つわ。

棉紗[ミアンシャ]

 猷示[ユウシ]様が部屋から出てこられました。先ほど目配せした意味をわかっておられたようです。

 私は勇気を振り絞りました。

「あの、お話ししたい事があるのですが、お時間をよろしいでしょうか」

「ああ、構わんが」

 相手は猷示[ユウシ]様です。私は昔からあまり人様とお話しするのが得意ではなく、初対面の人とお話しする時には相当に緊張します。ですけれど、これからの行動には私の命だけではなく、伊雷を始めとして棉家と共に戦ってくれた幾多の人々の命の価値がかかっています。

 ですから、きちんとこの方とはお話をしておかねばなりません。

 猷示[ユウシ]様は無造作に空き部屋の扉を開けると、私にそこに入るように促しました。私が部屋の右壁を背にして座ると、彼は腰の刀を外し左腰の後ろに置いて、それから私から二米ほど離れた所に腰を下ろしました。

「で、話とは?」

 私はこの人の顔をもう一度よく見ました。

 武人らしい精悍な顔つきですけど、まだ若い人です。ラティアさんが言うとおり、信用できるように見えますけれど、私はまだ祖父や父のように人を見極める力は持っていません。ですから自分の目に頼るよりもこの人の言葉で判断したいと思います。

「単刀直入にお聞きします。どうして私達を助けてくださるのですか?」

「雇われたからだが」

「ですが私はなにもお支払いしていませんし、その約束もしていません。正直に申し上げますと、その当てもございません」

「君はいくつか宝石を持っているだろう」

「……えっ!」

 なんでこの人はそれを知っているのでしょう。

「とは言えそれを俺への支払いに充てるとラティアへの礼もできないし、君の今後の身の振り方も厳しいものになるな」

「……お見それしました。確かに私、いくらかの宝石を持っています。おっしゃるとおり、これはラティアさんに半分を、私の今後の為に半分を使うつもりでした。猷示[ユウシ]様も私の命を救ってくださったのにこの事を隠し、無一文を装うとは恥知らずな行いでしたね」

「別に恥じる事じゃないだろう。すぐに信用してすべてを打ち明ける方がよっぽど思慮の足りない愚かな行動だ」

「……」

「それに俺は君の宝石に興味はない。報酬は[リャン]から受け取るつもりだしな」

「え……ですが、ラティアさんは[リャン]の商隊から抜け出してこられたと」

「だからといって簡単に[リャン]聳庚[ソンゲン]の孫を、しかも隊長を見捨てるわけがないだろう。[リャン]の連中が評判通りなら今頃必死になってラティアを捜してるさ。この件が片づいてから[リャン]に支払いを求めれば言い値で払ってくれるだろう」

「そうでしょうか」

「先の事はともかく、俺としてはここしばらくの宿代と食事代が出ればそれでいいんだ。そのくらいは面倒みてくれるんだろう?」

「はい、それはもちろんですけれど。ですが、それで命をかけてあの黄鋭[ファンルイ]と戦われるのですか」

「それだ。黄鋭[ファンルイ]にはちょっと貸しがあってな。いずれはそれを取り立てなくちゃならんのだ。こちらにも色々あるんだよ」

 そう言った猷示[ユウシ]様の眼が暗く沈みました。多分、この方は黄鋭[ファンルイ]、あるいは稜曄[ロンファ]に恨みがあるのではないでしょうか。

「わかりました。ただの仕事ではなく、猷示[ユウシ]様にもご事情があるということですね。この場合、私達の利害は一致しているということでよろしいのでしょうか」

「そう言う事だな。だから俺が君やラティアを稜曄[ロンファ]に売るなどという事は心配しなくていい。第一そんな事をしたら俺は二度と表を歩けなくなる」

「そういうものなのですか?」

「雇い主を売る保刃[バオレン]など、誰が信用する?そんな事をすれば二度と保刃[バオレン]として生きる事はできん。それどころか他の保刃[バオレン]から『恥晒し』として狙われる事もあるし、何よりあの[リャン]が俺を許さん。こう言ってはなんだが、君たちを売ったところでそれに見合う対価があるとは思えん」

 それは間違いないでしょう。所詮私など小国の落人です。今、私が持っている宝石の方がよっぽどいいお金になるでしょう。

「ですがもう一つ気になる事があります。失礼な事とわかってはおりますが、お聞きしなくてはなりません」

「ああ、その心配もないぞ」

「え」

「つまり俺がラティアに女として興味を持っているんじゃないか、なにか良からぬ下心を持っているんじゃないかと言いたいんだろう?」

「いえ、その……そこまでは……」

「確かにラティアは魅力的な女性だとは思うが、俺は一人の女を得る為に稜曄[ロンファ]に喧嘩を売るほど剛胆じゃないぞ」

猷示[ユウシ]様はかなり肝の太い方かとお見受けしますけれど」

「いやいや、実は俺は結構臆病なんだ。それに」

 猷示[ユウシ]様はにやっと笑いました。

「こんな状況につけ込んで女を口説くほど姑息でもないつもりだぜ?」

「は、はい」

 あまりといえばあまりに失礼な質問でした。思わず頬が熱くなります。

「まあ気にするな。ラティアを心配しての事だろう、俺も気にしないよ」

「恐れ入ります」

「じゃあ話はこれで終わりかな」

「はい。お時間を取らせました」

「おう。じゃあ今日はゆっくりと疲れを取りな」

 猷示[ユウシ]様はそのまま部屋を出て行かれました。

 果たしてあの方は本当に見たとおりの方なのでしょうか。今、お話ししたかぎりでは信頼できる方のように思われます。また『鉄盾[ティエジュン]』とまで言われた高名な保刃[バオレン]ということは今までの業績も素晴らしいのでしょう。それにラティアさんも信用されているようです。

 だからこそ、最初は疑ってかからねばと思っていたのですが……。なんだか疑うのが難しくなってきてしまいました。

猷示[ユウシ]

「さて」

 俺は部屋に戻ると腕組みをしている菊花[チーファ]の前に座った。

「なにか言いたい事があるみたいだな」

「ええ、あるわ」

 菊花[チーファ]は不機嫌そうな眼を俺に向けた。

「どうして急にこんなことになってるの?」

「偶然、だな」

 俺は寝ころんだ。

「いきなり巻き込まれたとしか言いようがない。逃げる事もできなかったし、その時のラティアの対応も気に入ったしな」

 俺はラティアが林から飛び出してきた時の事を話した。

「これで見捨てたら俺は人じゃないぞ」

「それはそうだけど」

 菊花[チーファ]も頷く。

「でもいきなり黄鋭[ファンルイ]の剣士を斬ったのはまずかったわね」

「斬らなきゃ斬られてた。あの時あそこにいた以上避けられない事だ。それに」

 俺は天井を見上げた。まめに手入れをされているとは言え、それなりに古い建物だ。天井板もあちこち痛んで染みや汚れが目立つ。見ようによっては人の顔に見えない事もない。

「いずれ稜曄[ロンファ]黄鋭[ファンルイ]には借りを返さなくちゃならん」

「……そうね」

 そうだ。世界を知り事情を知った今ではあの頃の怒り、復讐心はいくぶん薄れている。だが、決して許しはしないし認めもしない。少なくとも黄鋭[ファンルイ]に味方する理由はまったくない。

「それにこのまま干からびるわけにもいかんだろ」

「聞きたいのはそれもよ。あの二人はそんなにお金を持ってるの?」

「持っているのは[リャン]だ。ここでラティアを助けておけば[リャン]は言い値で金を払うだろう」

「口封じに消されるかも」

「その時はその時だ。まあ[リャン]聳庚[ソンゲン]の配下ならそんな情けない事はしないだろうがな」

 俺はまだ見た事のない高名な武術家の名を出した。

 [リャン]聳庚[ソンゲン]

 この蒼昌大陸最強の武術家の一人だ。若い頃からその名を知られ、しかも驕ることなく各地の高手を訪ねて一手の教えを乞うた。三十の頃には「無双」と評された遣い手だ。

 武装強盗や山賊の類などはただの一打ち、歴戦の傭兵一個小隊を一人で全滅させ、「閃光拳」とまで呼ばれ百人以上を正試合で殺している港宣明という武術家を一撃で殺した。手裏剣を持てば二十米先の五つの的を同時に射抜き、槍を持てば天下に敵するものはなく、素手で重装騎兵を打ち倒す。

 一番よく知られているのは貫関という街での戦いかもしれない。その土地の无頼[ウーライ]に因縁を付けられた[リャン]聳庚[ソンゲン]はただ一人で三百人の无頼[ウーライ]と対峙した。そして一筋の槍をもって瞬く間に主たる者十数人を突き倒し、あまりの強さに怯えきった无頼[ウーライ]共を尻目に悠々と去ったと言う。

 権力に屈しない事でも有名で、やがて重税と圧政にあえぐ寒村に居を定め、そこの領主とただ一人で争った。最初は関わり合いを恐れてむしろ出て行けがしの扱いをしていた村人達もやがてその姿勢に感化されたのか、[リャン]聳庚[ソンゲン]に武術を習い、領主に反抗するようになった。ついに大規模な争乱が起きたが[リャン]聳庚[ソンゲン]と村人は領主軍を撃退し、実質的な自治権を有するようになった。

 その[リャン]聳庚[ソンゲン]が特に産物もなく、若い男は軍に入るのが当然という寒村の若者を集めて作ったのが『[リャン]武装商隊』だという。[リャン]聳庚[ソンゲン]が直伝した武術によって鍛えられ、率いられた若者達は自らの武力で大陸を横断し、各地の産物を商った。俺が保刃[バオレン]となった時にはすでに[リャン]武装商隊は「蒼昌大陸最強の武装商隊」としてその名を知られる存在だった。

 [リャン]武装商隊は強いだけではない。『騙すな。騙されるな。』という言葉の元に行動する彼らは常にその指導者と同じく正道を進み、信頼を得た。常に万人に認められる行動をしたわけではないが、彼らはいつでも彼らの信念を守った。権力に屈することなく、欲に溺れることなく、世間の評判よりも自分たちの判断を信じる。その姿勢を嫌う者も多かったが、だからといって彼らの信念を疑う者はいなかった。

 その[リャン]が一人の少女を救う為に出奔した若い隊長を見捨てるなどあり得ないし、その事をもみ消す為に関係した者を口封じに殺すなどさらにあり得ない。

「でも本当にあの人は[リャン]武装商隊の隊長なの?」

「ふむ」

 実際の所、ラティアが[リャン]武装商隊の隊長という話は本人と棉紗[ミアンシャ]が言っているだけだ。代替わりという話も初耳だが、[リャン]武装商隊とはいえ一商隊に過ぎず、その隊長が変わったという程度の話が末端の保刃[バオレン]の耳まで届く事はあまりないから不思議ではない。

「証拠はない。だが[リャン]聳庚[ソンゲン]の孫と言われて十分に納得できる功夫だった。それに話に矛盾はないし、第一そんな嘘をつく理由がない」

黄鋭[ファンルイ]を敵に回してまで私達を騙して得をするような事があるわけもないし」

 そう言う事だ。俺たちを恨む者は少なくはないが、あの黄鋭[ファンルイ]を……ひいては燎帝[リアンティ]を敵に回してまで罠を張る事などあり得ない。それほどに恐ろしい連中なのだ。

「それじゃ」

 菊花[チーファ]は「その話は良しとして」と立ち上がった。

「明日ここを出て、芳滝[フェンヤン]に向かいましょ。あそこなら大きな街だし、しばらく隠れていられるわ」

「よし。それじゃそろそろ夕食にするか。魚のいいのを買ってきたし、巻心菜もある。和え物でいいか?」

「手伝うわ、兄様」

「お前は休んでろ。明日までにちゃんと身体を治さないとな」

「でも」

「こう言う時は兄の言う事はちゃんと聞く。約束だろ?」

「はーい……」

 俺はちょっと不服そうな菊花[チーファ]の頭をなでると、部屋を出た。

小樹[シャオシュ]

 馬から下りたとたん、僕は膝から崩れ落ちた。まったく足に力が入らない。

「おう、さすがに限界か」

 釧銘さんがニヤニヤと笑う。なにか言い返したいけれど、声を出すのも辛いくらいに疲れている。なにしろ二日間ほとんど休みなしに走り回って、しかも昨晩も野宿なのだ。いつもは馬車の中で寝ているから、野宿には慣れていない。

「いやいやその眼が出来るなら大したもんですよ」

 馬を木に繋いでから、笙錘さんがやってきた。なんとか顔を上げると、太甫さんも壬諷さんも、もちろん債碩さんも特に疲れた様子はない。体力オバケばっかりだ。

「しばらく休んでいなさい。小樹[シャオシュ]の仕事は今のところないからね」

「……い、いえ。手伝います」

「無理しなさんな。お前はまだ一日中馬に乗れる歳じゃないし、いざという時に体力を残しておいてもらわなくちゃならんのです。寝てなさい」

 とても悔しいが、太甫さんの言うとおりだ。僕は意地を張るのを止めて、恥も外聞もなく地面に手足を投げ出した。

「俺は火をおこす。壬諷と債碩は鳴子を頼む。太甫は寝床の用意、笙錘は水と薪を集めてくれ」

 釧銘さんが指示している声を聞きながら、僕はあっさりと睡魔に負けてしまった。

 僕は肉の焼けるおいしそうな匂いで目を覚ました。途端にものすごくお腹がすいている事に気が付く。

「お、起きたか。飯を食うか?」

「食べます!」

 飛び起きる。一刻あまり寝ていたらしい。まだ身体はぐったりと疲れていたが、それよりも空腹が勝った。

 食事は干し肉を炙ったものと米だけだったけれど、信じられないくらいおいしかった。空腹が最高の調味料という言葉を思い知る。

「にしても姫様は無事だろうね」

「ううーむ。今頃どうしておられるか……」

 そう。僕らは隊を飛び出してしまったお姫様……姫様を捜している。

 お姫様というのは比喩でもなんでもない。僕ら[リャン]武装商隊の者にとっては彼女は間違いなくそう呼ばれるにふさわしい存在だ。綺麗で気高くて純粋で、そして強い。どんな事があっても守りたい人だ。

 そもそもは姫様の兄であり、[リャン]武装商隊の監察方隊長でもある[リャン]閃さんがもたらした情報がその発端だった。

 なんでも去年護衛をした荊筒[チントン]の棉家が皇国に反乱を起こし、討伐されたのだという。一族は離散し、稜曄[ロンファ]の特務が逃げる一族を追いつめては皆殺しにしているらしい。

 僕もその時によく話した少し年下の可愛い女の子の事は憶えていた。確か棉紗[ミアンシャ]という娘で、あの傲慢な爺さんの孫だった。爺さんとは違って貴族だ庶民だということにこだわらず、「臨樹様」と呼んでくれたものだ。ちょっとだけ舌がまわらずに「さま」が「ちゃま」に聞こえたりするところも可愛らしかった。

 その娘も追われているという。まだ討たれたという話はないが、時間の問題だろう、と閃さんは言った。

 姫様は当然ながら「助ける!」と叫んだ。だけどそれは論外だ。心情としては助けてあげたいけれど、棉家は今では皇国の敵だ。それを助けるという事は僕ら[リャン]武装商隊が皇国の敵に回るということに他ならない。衝武[ヘンウー]さんも閃さんも、とにかく皆が姫様を止めた。

 姫様はその場は「皆の言う事はもっともだ」と頷いたらしい。だけどその日の晩、姫様は単身隊を抜け出した。姫様の机の上には隊長の地位を辞退し、今後は[リャン]武装商隊とは一切関係ない旨を書いた書類が血判付きで置いてあったという。

 無論とんでもないことだ。無責任にもほどがある。隊長としての立場を放棄し、[リャン]のみならず[シャオ]まで危険にさらす行動だ。

 だからといって衝武[ヘンウー]さんを始めとする[リャン]武装商隊の面々が姫様を非難したかというと実はそんなことは全然なかった。むしろ「さすがは姫様」「聳庚[ソンゲン]様も無茶をする方だが、やはり血筋だなあ」などと喜んでいたくらいだ。

 みんな本心では棉家の人々を助けてあげたかったのだ。もちろん今回の事で言えば理は稜曄[ロンファ]にある。事情はどうあれ反乱を起こした一族が処罰されるのは当然で、それをかばえば同罪だ。そして反乱に対する罰は処刑しかない。だから[リャン]が棉家の人間を匿えば、それはすなわち[リャン]が皇国に反乱を起こした事と同じ事だ。

 だけど、確かに聳庚[ソンゲン]様なら「それがどうした」と言うだろう。そして迷わず棉家の娘を助け、皇国が討伐に来れば誰にはばかる事もなく戦うだろう。あの方はそうやって[シャオ]の村を救い、[リャン]武装商隊を育て上げた。その薫陶を受けた姫様が皇国怖さに見て見ぬふりをするはずもない。

 だから、僕たちは姫様を捜している。まさか荷を全て置いて全員で捜すわけにはいかないから、一番組の腕利き五人と、いざと言うときのために医師見習いの僕の六人が捜索隊として派遣された。

 問題があるとすれば、姫様の行動が実に早かった事だ。棉家の姫と護衛は孟礎という街にいるという情報はあったから姫様は孟礎に行っただろう、ということは見当がついたけど、僕たちが姫様がいない事に気が付いて対応を決めて装備を調えて出発したのは姫様が抜け出した翌日の昼過ぎの事だった。姫様は馬を一頭持って行ったから、僕たちが出発した時間にはもう孟礎の近くまで行っていたと思う。それに僕たちは皇国の討伐隊と戦う事も想定してそれなりに装備を調えていたからどうしても速度は遅くなる。結局まる一日遅れるような形で後を追わざるを得なかった。

 さすがにそれでは見失うのは目に見えていたから、監察方が軽装備で孟礎とその周辺の街へと向かった。僕たちは野宿で一泊してから翌日の昼前に孟礎に到着、先に調査に入っていた監察方と協力して姫様の足取りを追った。

 姫様が馬を保刃[バオレン]宿に預けて、双楷[シュアンチエ]へと向かった棉紗[ミアンシャ]達を徒歩で追いかけたとわかったのが夕方の事だ。

 孟礎から双楷[シュアンチエ]に行くには遠回りな上に皇国の軍基地がある安選を経由する北回りの四囲街道か、同じく大きく遠回りする南回りの頭祁街道かを行かなくてはならない。直線距離だとあまり離れていないこの二つの街の間にはけわしく草も生えていない丘陵地帯が広がっていて、馬の通行は難しい。だが棉紗[ミアンシャ]達はあえてそこを徒歩で逃げる事にしたらしい。姫様もやはり徒歩でそれを追いかける事にしたようだった。

 装備や補給品を持っていて馬を置いていく事もできない僕たちはその後を直接追う事はできない。だから南回りの頭祁街道を使い、双楷[シュアンチエ]に直接行く事にした。もちろんまた途中で野宿だ。

 監察の閃様や萄希[タオシ]さんは一足先に双楷[シュアンチエ]に向かっている。もちろん徹夜で馬を走らせて双楷[シュアンチエ]に着いたとしてもその後動けなくては意味はない。だから閃様たちは馬車と保刃[バオレン]を雇った。睡眠は道中酷く揺れるだろう粗末な馬車の中でとるつもりらしい。

 ちなみに姫様が預けていった馬はちゃんと回収している。閃様たちの馬と共に今頃は近くで仲間と草を食べているだろう。

「姫様、無事だといいなあ。ま、あの姫様が危ない目に遭う事なんかないだろうけどなっ!」

「……」

 壬諷さんにぽんぽん、と肩を叩かれて債碩さんがこくり、と頷く。落ち着いた風貌の債碩さんといつも笑っている壬諷さんと見比べると、壬諷さんの方が年下にも見えるけど、実際には三つ上らしい。性格は反対と言っていいくらい違うこの二人はまるで本当の兄弟みたいに仲がいい。

「明日の昼には双楷[シュアンチエ]に着くだろうぜ。おそらくはそこで宿を総当たりじゃねえか?」

 うわー、めんどくせえ、と笙錘さんが手を上げた。もちろん本音じゃない事はわかっている。この人はいつもこんな感じで伝法にふるまうけど、実際にはとても優しい人なんだ。

「まあ明日の話ですよ。おや、小樹[シャオシュ]はふらついてますね」

 言われてほとんどまぶたが閉じてしまっていた事に気づく。慌てて目を開けようとすると、ぐらり、と世界が揺れた。

「おう、小樹[シャオシュ]。食い終わったら寝ていいぞ」

「い、いえ!僕も見張りをします」

「その意気や良し。だが寝ろ。お前の仕事はとにかくついてきて、もし姫様とかが怪我をしていたら出来る限りの事をすることだ。お前が倒れたら医者はいないんだからな」

「わかりました……」

 ちょっと子供扱いされているようで悔しいけど、釧銘さんの言う事は間違っていない。僕は横になり、次の瞬間には眠っていた。

珀皙[ハクシ]

 今日、なかなか面白そうな話を聞いた。

 なんでも『鉄盾[ティエジュン]猷示[ユウシ]が謀反人の家族を保護して逃げている、というのだ。しかもすでに黄鋭[ファンルイ]の剣士が一人斬られているらしい。

「というわけで俺を連れて行け」

「困ります」

 特務警察第三調査室の丁峰[チンフェン]幹尉は眉をしかめた。

「これは我々の仕事です」

「観利遠が斬られたんだろう。君たちじゃ手に余るぞ」

 そう言うと丁峰[チンフェン]は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「ご存じだったのですか。ええ、確かに観殿と隊員三名が斬られました。ですが次は仕留めます」

「次は何人殺されるつもりだ?言っておくが君たちの腕じゃ猷示[ユウシ]のような遣い手は簡単には斬れんぞ。仕留めるまでに殉職者が両手両足の指で足りればいいがな」

「くっ……」

 殺気すらこもった視線を軽く受け流す。

「観の代わりがいないんだろ?俺なら観よりも使いようがあるぞ。しかも今なら特別手当もいらん。お買い得だ」

「あなたはただ猷示[ユウシ]と戦いたいだけでしょう。斬り合いが好きなだけの剣士を連れて回るほど我々は暇じゃないのです」

「言うなあ」

 俺は腹を立てるよりも笑ってしまった。この男、黄鋭[ファンルイ]でも上位の席次にいる俺を恐れもせずに言いたい事を言う。さすがは特務警察の実行部隊隊長だけに、自信と誇りがあるのだろう。こういう奴は嫌いじゃない。

「じゃあこうしよう。俺は許可が出ない限り勝手に斬り合ったりしない。捜査の邪魔はしないし、尾行している時に嬉しそうに奴らの前に出て行ったりしない。その場の責任者の指示に従う。これならいいんじゃないか?」

「……本当ですか?」

 疑っている。

「そうならば確かにありがたい話なんですが」

「どうせいずれは斬り合う事になるだろ。それまでは刀を振り回したりしない。約束する」

「わかりました」

 半分諦め、半分歓迎といった表情だ。

「しかし珀皙[ハクシ]殿の任務はよろしいのですか?黄鋭[ファンルイ]衛士がそんなに暇とは思えませんが」

「許可はとったさ」

 皇都黄鋭[ファンルイ]の長である紬袙安[チュウバツアン]の部屋で半日粘った結果だ。

「では三刻後に出発します。それまでに装備を整えて前庭に集合してください」

「ほう。えらく急ぐな」

「はい、相手が相手ですし、観殿と隊員の敵討ちです。面子にかけても逃がすわけにはいかないのですよ」

「了解した。武装と服だけでいいか」

「はい。食料などは隊で用意します。遅れないでくださいよ」

 俺は丁峰[チンフェン]に片手をあげて部屋を出た。

ラティア

「そう言えば歩かなくちゃいけないのよね……」

 菊花[チーファ]がつぶやいた。

「なにか問題があるのか」

「あるわよ。あなたみたいな人には大した意味はないかもしれないけれど、私や棉紗[ミアンシャ]はそこまで野生になじんでないの」

 なんだか理不尽な罵倒を受けているように感じるのは気のせいか。

 いや、多分気のせいではないのだろう。昨日からこの少女は私に何かとトゲのある言葉を投げつけてきた。実際の所、菊花[チーファ]が言った事はすべて事実であり、怒るような事ではなかったから気にはしていないが、なんで嫌われているのかわからないのは気になる。

 機会を見つけて話してみよう。きっと理由があるのだろうから。

「馬車を雇うわけには……いかないわよね」

「そうだな」

 猷示[ユウシ]が頷いた。

「ラティアと棉紗[ミアンシャ]の持ち金を合わせてもそれほど余裕はないからな」

「どうせ飛び出してくるならありったけのお金も持ってくればよかったのに」

 責める目で見つめられて私は言い返した。

「そういうわけにはいかない。商隊の金は商隊のものだ」

 そして隊長は無給だ。もちろんそれでは困るので自由裁量で使える金はそれなりに用意されているが、それはあくまでも[リャン]の隊長として使う金だ。その隊長を放棄して出奔した以上、その金を持ってくるわけにはいかない。

「どちらにしても馬車なんか雇ったら確実に足がつくから歩くしかないんだけどね」

 菊花[チーファ]は嫌そうに立ち上がった。

「私、頑張って歩きます」

 棉紗[ミアンシャ]は反対に健気だ。

「じゃあそろそろ行くか」

 猷示[ユウシ]も立ち上がった。旅慣れている保刃[バオレン]にしてはやや荷物が多めだが、どうやらそれは菊花[チーファ]の荷物もすべて背負っているからのようだ。妹をずいぶんと大事にしているのだな。なんでも菊花[チーファ]はあまり身体が強くなく、しかも病み上がりで長時間歩くのも辛いらしい。気の毒だとは思うが、一応私も雇い主だから、ここは不便を我慢してもらうしかあるまい。

「あまり急がなくていいからな。夕方までには宿場につけるだろう」

 空はよく晴れているが、陽射しは強くない。過ごしやすい季節である事は幸いだった。

「明日の昼過ぎには芳滝[フェンヤン]につけるわね。あそこなら双楷[シュアンチエ]より人口は一桁多いし、街に紛れ込む事も難しくないわ」

 菊花[チーファ]棉紗[ミアンシャ]がなんとなく隣同士になって歩いていく。私と猷示[ユウシ]はその後を守るように、これまたなんとなく隣同士で歩いていった。

菊花[チーファ]

「やっと……着いた……」

 私はだらしなく床に寝ころんだ。もう外では日が暮れかけている。朝からこんな時間まで歩き続けるなんてここしばらくはなかった事だもの、疲れるわよ。

「よく頑張ったな、菊花[チーファ]。まずは湯を使ったらどうだ」

「そうね……汗だくだし、そうしようかな。でも、ちょっと休んでからね」

「うむ」

 兄様は頷くと荷をほどきはじめた。このところうるさいくらいに言ってあるので、前みたいに私の着替えなどを勝手に用意する事はない。そうしないと兄様は私の肌着とかを無造作に用意してくれたりするんだもの。

 もちろん「兄」であり、ただ一人の肉親であればそれは当たり前の事なんだろうと思う。兄様とは十も歳が離れているし、下手をすれば妹よりも娘という感覚なのかもしれない。

 でも私はそんなのは嫌だ。

 私は兄様が好きだもの。「恋」と呼んでいいものかどうかはわからないけど、多分これは兄妹の気持ちとは違うと思う。その気持ちに気が付いてから、私は兄様に「妹」と見られないように努力する事にした。

 まずは私を一人の女の子として意識してもらわなくてはいけない。だから、当たり前のように肌着を用意してもらったりしてはいけない。そんなわけで、私は今では肌着はもちろん、他の荷物にも兄様には簡単に触れさせないようにしていた。

 そこまで用意周到に配慮しつつ外堀を埋めていたのだが……。

 トントン、と扉を叩く音がした。

「誰だ」

「ラティアだ。棉紗[ミアンシャ]もいるのだが、入って良いか」

「いいぞ」

 私が何か言う前に兄様が許可を出してしまった。ラティアが棉紗[ミアンシャ]と入ってきた時には、私はしっかりと床に正座をしていた。

 兄様がなにか言いたげに私を見るが、睨みつけて黙らせる。どうあってもラティアのような女に無様な姿を見せるわけにはいかないのだ。

「明日の打ち合わせを夕食後にしたいと思うのだが、その前に湯を浴びようかと思う」

菊花[チーファ]にもそうしろと言ったところだ」

「そうか。ちょうどいい、菊花[チーファ]。一緒に風呂に入らぬか」

「えっ……」

 一瞬躊躇したが、これはこれで好機かと思い直す。そうよね、風呂場なら兄様がいるわけはないし、この女としっかり話すには良い舞台かも。

「いいわよ。じゃ、行きましょうか」

「では猷示[ユウシ]。警護は頼むぞ」

「おう」

 うーむ……

 私は思わず殺気をこめて隣で湯につかっているラティアを横目で睨んだ。なにしろこの女、反則な身体をしているんだもの。

 全体はスラッとしているのに、胸はけっこう大きくてしかも形がすごく綺麗。お腹はぺったんこだし、腰はキュウッと締まっていて、脚の線は彫刻のようにすらりと伸びてる。顔の造作だけでも誰もが振り返るような美人なのに、身体までこんな造りなんて滅茶苦茶よ。

 それに比べて私は……。

 思わず自分の胸を見てしまう。もしかしたら私、棉紗[ミアンシャ]よりも胸が小さいんじゃないかしら。

「あの……菊花[チーファ]様」

 棉紗[ミアンシャ]が私に話しかけてきた。正直、ちょっと驚いた。この娘は今日の道中も私に直接話しかけた事はまったくなかった。多分、あまり人と話すのが得意じゃない娘なんだと思うんだけど。

 ただ、私は棉紗[ミアンシャ]には警戒心や嫌悪感は感じていない。どちらかというと好意を感じていたりする。

「なに?」

「え、えっと……その……お、お風呂好きですか?」

「そうね、兄様よりは好きよ」

猷示[ユウシ]様ってお風呂がお嫌いなんですか?」

「んー……嫌いっていうか面倒くさがりなのよ。ちゃんと言わないと何日か入らないままでも平気なのよね」

 ラティアにも聞こえるように言った。一般に不潔な男は好かれないはずだ。だがラティアの常識はやや普通とは違っていた。

「そうだな、武術家が多少の汚れを気にしては話にならん」

「……でも、何日も風呂に入らない男なんて嫌でしょ?」

「うーむ、まあそうなのだが。商隊ではそんな事を気にしていては生活できぬしな。異臭を放つのはさすがに勘弁してほしいが、猷示[ユウシ]はそれほど無神経ではあるまい」

「え、ええ」

 ここで「兄様は不潔で無神経」と言えればいいのかもしれないけど、やっぱり私にはそんな事は言えないわ。

菊花[チーファ]様はお兄様と仲がよろしいのですね」

「ん、まあね。兄様は剣の腕は凄いけど、他の事はさっぱりな人だから

「そうなのですか?ですけどとても頼りになる方のように思います」

「う、うん。まあそうね」

 私の兄様を褒められて悪い気はしない。思わずにやけてしまう。

「で、菊花[チーファ]。少し聴きたい事があるのだが」

「なんですか?」

「そなた、私になにか言いたい事があるであろう。私が何か気に障る事をしたか?であれば謝罪をしたいのだが」

 ぐっ……。

 私、やっぱりラティアは苦手。なにが苦手ってこの邪気のないところが。ラティアにしてみれば会った途端に敵意を向けられてキツい言葉を投げつけられたんだから、普通嫌うわよね。なのに「自分に悪いところがあるのではないか」なんて考えて、しかも率直に問いかけてきて。それも「何も悪い事してないのになんで嫌うのか」とかいう考えはかけらもないんでしょうね、ラティアには。

 真っ直ぐ、強く、正面を向いて育ってきたお姫様。

 一番困るのは私がそういう人を嫌いじゃない所よ。ううん、ラティアを嫌う事の出来る人はそういないでしょうね。

 だから、私も正面からぶつかる。

「ラティアはなにもしてないわ。ただ私としてはラティアの存在が不都合なだけ」

「ふむ。なぜに不都合なのだ?危険な仕事を依頼しているからか」

「そんな事は関係ないわね。危険はいつもの事だし、仕事があるのはありがたいわ」

「払いが悪いからか」

「それはわかった上で仕事を受けたんだから、そんな事は気にしてないわ」

「うーーむ」

「本気でわからないの?」

「わからぬ」

 鈍感だ。棉紗[ミアンシャ]はすっかりわかった顔で、心配そうに私達を見ているのに。

「ラティアは綺麗で、兄様の傍にいるからよ」

 なんの事だ、とラティアは首をかしげた。

「はっきり言うとね。私は兄様が好きなの。兄としてではなく。だからラティアみたいな女が傍にいるのは嫌」

「……な、なるほどってええっ!」

 ポンッ、とラティアの頬が赤くなった。

「そそ、それでは菊花[チーファ]はその」

「ええそうよ。誤解しないでね、兄様は私の事を『妹』として好きよ。大事にしてくれる。でも私はそれは嫌なの」

「し、しかし。そなたらは兄妹なのだろう?」

「異母兄弟だわ。けれどそんな事はどうでもいい事だし」

「ま、まあ確かに。それは理由にはならぬな」

 これまたあっさりと認めるラティア。

「あ、あの、いいのですか?」

 むしろ棉紗[ミアンシャ]の方がうろたえてるわね。

「良いのではないか?兄妹とはいえ男女だ。互いに納得の上であればどのような関係を築こうとそれは他人の干渉するところではあるまい」

「はあ」

 存外に柔軟だわ。ていうかわかりが良すぎ。あとこの人、恋愛関係に慣れていないみたいね。綺麗な人なのに今まで男の人と付き合った事とかないのかな。

「まあそういうわけでラティアが兄様の傍にいるのは不愉快なの。ただそれだけ。ラティアがなにか悪い事をしたわけじゃないから、これはただの嫉妬よ。不愉快な思いをさせてごめんなさい」

「私は別に不愉快な思いはしておらぬ。だが心配はいらん。猷示[ユウシ]は私を女としてみているわけではないし、私とて猷示[ユウシ]に男として関心を持っているわけではないぞ」

 そうね。今は、ね。

 でもこれからどうなるかはわからない。私の見るところ、兄様とラティアは決して相性が悪くはないわ。だからといってラティアにこれ以上筋違いの敵意を向けるのも無理なんだけど……。

「はぅ……」

 ふと気づくと、隣で棉紗[ミアンシャ]が顔を真っ赤にして沈みかけていた。

「わわっ、棉紗[ミアンシャ]!しっかりなさい!」

棉紗[ミアンシャ]!湯あたりしたな。ほら、つかまって」

 私とラティアは棉紗[ミアンシャ]を抱き上げると、慌てて風呂場から出た。

猷示[ユウシ]

 菊花[チーファ]達が風呂に入っている間に、俺は宿の中を歩き回って大まかな間取りと外の様子を頭に入れた。

 もちろん宿を取る前に周囲の状況は確認している。広い道に直接面しているわけではなく、背後に林が近くて裏口から脱出しやすい宿を選んだ。もちろんある程度の大きさと頑丈さ、そしてお手頃な値段も大切だ。そんな良い条件を満たした宿は十数件の宿が集まっている宿場町とは言え、そうはない。この宿も十分な条件だとは言えなかったが、一番「マシ」だった。

 今日の道中では気を付けていたが監視されているような気配はなかった。だが昨日の戦いを誰も気づいていないとは思えない。

 特務が絡む任務であれば、不測の事態に備えて必ず目付役がついていたはずだ。戦いに巻き込まれない距離で密かに俺たちの戦いを観察していた奴がいただろう。そいつは味方が全滅する様を最後まで見つめ、報告したに違いない。

 戦いの後、宿に帰る時には跡を付けられている事を警戒し、回り道もしたし罠も仕掛けた。だがその時はなんの気配もなかったのだから、おそらくは目付は俺たちの行き先を探るよりも部隊が全滅した事を報告する方を優先したのだろう。

 結果として俺たちは敵の追っ手を一時的に撒く事に成功したが、反対に敵の組織的な捜索は早まった事になる。そして遅かれ早かれ敵の追っ手は俺たちを見つけるだろう。菊花[チーファ]の予想では早くて明後日、遅くても一星節を稼ぐ事は無理だという。だから明日には芳滝[フェンヤン]に入り、都市の人混みに紛れなくてはならない。

 だが予想は予想。もしかしたら俺たちが気づいていないだけで特務の手の者が跡を付けており、夜襲などを掛けてくる可能性はあり得る。その時に周りの状況を把握しているかどうかで生死が決まるのだ。おろそかにはできない。

「おやおやお仕事熱心だねえ、旦那」

 二十を幾つか過ぎた年頃の女中が馴れ馴れしく声を掛けてきた。

「あんた保刃[バオレン]様だろ。お連れさん、別嬪さんばかりじゃないか」

「何か用かな」

「いやね、別嬪さんばかりだけどあんたは客に手を出すような保刃[バオレン]じゃなさそうだし。早い話、夜が寂しくないかい?」

 なるほど。共枕の誘いか。

「悪い、仕事中は女を絶つ事にしてるんだ。折角の誘いをすまないな」

 本当はそんな事はまったく思っていないが、宿の連中の不興を買う事は保刃[バオレン]の仕事では決して得になる事はない。断るにしても愛想の一つも言って相手の顔を立てるのも仕事のウチだ。

「おや、そうかい。んまあ仕事っていうなら無理強いはしないけど。勢い余ってあの子鹿みたいな嬢ちゃんに襲いかからないようにね」

 はははっ、と笑いながら女中が背中を向ける。

 子鹿……ねえ。

 俺は女中とは反対の方向に歩きながら少し笑った。多分「子鹿」とはラティアの事だろう。だけどあの娘はそんな可愛らしい玉じゃない。今日一日、あまり話をする事もなかったが、隣を歩いていてよくわかった。

 足の運び、呼吸の配り、注意力に持久力、どれをとっても一流の武術家のそれだ。もちろん昨日、一瞬で手練三人を屠ったことでその腕は十分にわかってはいたのだが。

 どちらかというと若狼かな。しなやかで活動的で自分の力と考えを信じている。

(襲いかかる……か。そんな事したら俺が殺されるよな)

 ラティアと、菊花[チーファ]に。

 菊花[チーファ]はずいぶんとラティアに対抗意識を持っているらしい。あの女中の言うようにラティアに手を出したりしようものなら、まず妹に寝首をかかれる心配をしなくてはならん。

 確かにラティアは魅力的な少女だと思う。美形だが幼さが残った顔立ちは少女と女の境を綱渡りしている年齢特有の可愛らしさだし、ゆったりした服に隠してはいるが身体だってかなりのものだ。俺も男だから見るべき所は見ている。だが、別にそれ以上の感情を持っているわけではない。

 なによりも彼女たちは俺が守るべき存在だ。劣情を向ける相手ではない。

 というかつまらない事を考えているな。

 俺はやれやれ、と軽く首を振ると、部屋へと戻った。

珀皙[ハクシ]

 完全に見失ったらしい。

 俺たちは町はずれの広場に二台の装甲馬車を停めていた。まわりでは隊員達が装備点検を行っている。その数は十名。いずれも戦闘経験豊富な剣士だ。

 俺は丁峰[チンフェン]と装甲馬車の荷台に腰掛けてその様子を見ていた。他にやる事はないからだ。

 安選を昼前に出て双楷[シュアンチエ]に着いたのが十四刻過ぎの事だった。報告通りに郊外の道沿いで観と三人の特務警察隊員の埋葬された遺体を発見したのが十五刻前。そのまま夜を徹して交代制で周辺の捜索に当たり、保刃[バオレン]宿や保刃[バオレン]会に聞き込みをした結果、猷示[ユウシ]とその連れらしい者達とその居場所を割り出せたのが朝方。そのまま目星を付けた数件の宿をしらみつぶしに当たり、郊外の林の隙間に建っていたボロ宿で熊のような主人に「その客なら昨日の朝にはここを発ったぞ」と言われたのが昼頃の話である。

 わかった事はその連中は四人、男は鉄盾[ティエジュン]一人だけで残りは女。それも十代の少女達ばかりということだった。そのうちの一人が棉家の長女だろう。一人は鉄盾[ティエジュン]の妹であることは間違いない。ただ、残りの一人がわからなかった。

 馬車を使ったのであれば記録が残っているのだが、調べた結果それらしい報告はなし。つまり徒歩でどこかに出立したと見える。さすがに旅慣れた保刃[バオレン]と言うべきだろう。

「棉家ゆかりの者はここから徒歩で行ける距離にいるのかな」

 聞くと、丁峰[チンフェン]はすらすらと答えた。

「専揚、富池、保檜というところでしょうか。専揚と富池は棉家の一族がおりますのですでに別働隊が向かっておりますが」

「保檜はなんなんだ」

「前棉家当主の友人がおります。義兄弟の契りを結んだとか」

「そこは放っておくのか」

「親族ではありませんので処罰対象ではありません。ですが念のために保檜に通ずる街道には検問が立っております」

「ならばそのいずれに奴らが向かってもいずれは捕まるな」

「そうですね。行けば、ですが」

「どういうことだ」

 わかっているでしょう、という眼で丁峰[チンフェン]が俺を見た。

「私ならそのようなわかりやすいところには逃げません。むしろ棉家とはなんのつながりもない所に逃げますね。出来れば大きい都市が理想です。そこならば知り合いの筋をたどって見つかる事もありません。うまくやればそのまま一生をそこで過ごす事もできるでしょう」

「そうだな」

 俺は丁峰[チンフェン]の評価をさらに一段上げた。この男、勇敢で率直なだけでなく、頭もいい。

「ならばその線で行こう」

「決めるのは私です」

 釘を刺された。

「わかったわかった。確かに隊長はアンタだ、従うよ」

「専揚、富池、保檜のいずれかに彼らが向かったのであれば我々が後を追う必要はありません。おっしゃるとおり、そこの部隊に任せておけばよい事です。ですから我々としては彼らがそちらへは向かわなかったという仮定の下に行動します」

 つまりは俺の言うとおり、と言う事だが、彼にとっては「自分が決めた」ことが重要なのだろう。まあ隊長なんだから当たり前だな。

「この付近でそれなりの規模の都市で、かつ徒歩で二、三日で行ける都市となると安選か芳滝[フェンヤン]です。まさか特務と稜曄[ロンファ]軍の基地がある安選に行くはずはありませんから、そうなると芳滝[フェンヤン]ですね」

「なんで徒歩で二、三日の距離の都市を選ぶ?」

 また聞いてみる。丁峰[チンフェン]は今度は特に表情を変えずに続けた。

「敵はあの『鉄盾[ティエジュン]』です。我々の出方くらいは読んでいるでしょうし、甘くも見ていないはずです。ならば猶予期間は数日という事も大都市に潜む方が安全という事もわかっているはず。我々がそう読んで動くということも予測済みかもしれませんが、それでも一番合理的な判断は芳滝[フェンヤン]に向かう事です」

 実に理路整然としている。

「今から向かえばもしかしたら途中の宿場町で捕まえられるかもしれません。おそらくはすでに芳滝[フェンヤン]に入っているとは思いますが、それでも一刻でも早く芳滝[フェンヤン]に向かうべきです」

「わかった。では行こう」

 俺は荷台から降りた。入れ替わりに隊員達が装備や食料を積み込んでくる。

「出発するぞ。楊、豊は一番の御者、詠と管は二番の御者だ。残りは一番で休憩。私と珀殿は二番に乗る」

「はっ」

 きびきびとした動きで隊員達が指示通りに散る。

「目的地は芳滝[フェンヤン]。行軍速度」

 馬車に乗り込むと同時にゴトン、と揺れて馬車が進み出した。

小樹[シャオシュ]

「くっ……!」

 身体が痛い。どこが痛いってわけじゃなくて全部。

「わはは、大丈夫か?」

 笙錘さんが隣で大笑いしている。

「落ちないようにしろよ!医者が怪我してたら洒落にならねえ」

「わかってますよ。このくらい、平気です」

 強がるけれど、自分でも顔が引きつっているのがわかる。

 だいたい僕は医者見習いであって、馬に乗ることはめったにない。商隊の一員として多少は馬術も習ったけれど、専門の騎馬兵じゃないんだから二日続けて馬に乗りっぱなしなんて考えもしなかった。それにしてもこんなにキツイとは思わなかったな。

 今、僕たちはほとんど歩くような速度でポクポクと双楷[シュアンチエ]へと続く街道を北上している。本当は速度を上げたいところだけど、馬の疲労となによりも僕の体力がそれを許さない。

「……あの」

「ん?」

「すみません、僕のせいで走れなくて」

「なにを下らん事を気にしてるんだ。んなこたぁわかってて、それでも必要だったからオメェが来てるんだろが」

「そうだよ。だいたいここでちょっと急いだところでたいした意味はないんだからね」

 太甫さんが馬を寄せてきた。

「今必要なのは速度よりも情報だしね、それに関しては閃殿が双楷[シュアンチエ]に行っておられるのだから我々が急いで行く意味はあまりないのだよ。それよりもまだ先があるのだから無理をしない事だね。第一僕達も疲れていないわけじゃないし、何より馬にあまり無理はさせられない」

「……先は長い」

 債碩さんも重々しく同意した。

 街道はまっすぐに北へと延びている。左右はなだらかな起伏の草原で、風に草木が揺れている。やや汗ばむくらいの陽気だけど、風が東から吹いていて熱気をちょうどよく飛ばしてくれていた。

 左前方には孟礎と双楷[シュアンチエ]の間を区切る丘陵……というか山が遠くに見える。姫様はあの山を徒歩で越えていったらしい。つくづく見かけと違って体力自慢な人だ。

 僕たちはその後は黙ってぽくぽくと街道を進んでいった。

「お」

 釧銘さんが声を上げた。

 見ると街道の彼方から誰かが近づいてくる。かなりの速度で馬を飛ばしてくるあの人は……

萄希[タオシ]の姉御だなっ」

 壬諷さんが大きく手を振った。萄希[タオシ]さんも手を振っている。やがて僕たちは合流した。前列に釧銘さんと太甫さん、その後ろに僕、萄希[タオシ]さん、債碩さん、壬諷さんが続き、笙錘さんは替え馬の手綱を持って僕たちの後ろにいる。

「や、うまく会えたねぇ」

 萄希[タオシ]さんがにっこりと笑った。小柄でどうかすると姫様とあまり変わらない歳のようにも見えるけど、実際には十以上も違う。そして十年近くの参加経験を持つ古株で、監察方の副長でもある。こうみえて結構すごい人なのだ。

「姉御、どうでした」

「どうってアタシも夜明けに双楷[シュアンチエ]について、飯食ったらすぐにアンタ達を迎えに行くように閃様から言われたからね。まだなんにもわからないわよ」

「そうっすか」

 萄希[タオシ]さんは「まあ心配しなさんな」と壬諷さんの肩をぺしぺしと叩いた。

「まずは閃様と合流してちょうだいな。双楷[シュアンチエ]って言っても結構広い街だし、とにかく人出が欲しいのよ。できれば急ぎたいわね」

 釧銘さんが振り返った。

「と言っても小樹[シャオシュ]も強行軍でかなり無理してるし、第一装備も替え馬もいるからあまり急ぐわけにもいかんのだ。全部置いていくわけにもいかんだろ」

「そうねえ。それじゃアンタ達、とりあえず必要ない荷物とかを替え馬に移しなさい。で、一足先に双楷[シュアンチエ]に行ってちょうだいな。アタシと小樹[シャオシュ]は後から行くから」

 ……やっぱり僕は足手まといだ。でもそんな事を言っても仕方ない。僕は僕に出来る事をするためにここにいる。出来ない事を悔やむ為に一緒に来たわけじゃない。

「ふむ。閃様とはどこで落ち合えばいい?」

双楷[シュアンチエ]の南東にある七川町の東大通りに、水仙飯店っていう宿があるわ。そこに[リャン]閃の名前で部屋を取ってあるから」

「わかった。よし、荷物を積み替えよう」

 即断即決。僕たちは馬から下りて、野営道具や食料などとりあえず双楷[シュアンチエ]までは必要のない装備を替え馬にすべて積み直した。身軽になった釧銘さんたちは武器だけを持って馬にまたがる。

「頼んだよ、釧銘」

「まかせとけ」

 釧銘さんは力強く言うと、他の人たちと共に走り去った。

宋典[ソンテァン]

 準備は整った。

 実行部隊はすでに皇都に潜入している。総勢千二百人の兵が三ヶ月かけて商人、旅人、観光客など様々な名目で皇都に入り、潜伏している。彼らは十の部隊に分かれてそれぞれ俺の腹心の部下に監督されている。中には大人しく潜伏せずに目立つ事をして怪しまれたり、場合によっては当局に捕まったりする馬鹿もいる。すでにそういう報告も数件入っているが、問題はない。彼らは全員傭兵であり詳しい事は教えられていないから、尋問されたとしてもせいぜい強盗団の一員と疑われるくらいのものだ。それにそういう馬鹿はすぐに牢の中で俺が買収した看守共に処分される手筈になっている。計画に致命的な損害が及ぶ事はない。

 そして裸の王様はすでにやる気満々で皇都にいる。その名は董瓶[トンピン]。三代前には宰相を出したという名門貴族の当主で、豹騎将軍というたいそうな名前の職に就いている。実際に軍人としてはそこそこの実績を上げている男だが、人間としての質は大したことはない。

 名門貴族らしく家名に誇りを持ちすぎるほど持っており、当然ながらそんなものになんの価値も見いだす事のない燎帝[リアンティ]を心の奥では憎んでいる。だが表だって反抗も出来ず、燎帝[リアンティ]に会えば見苦しいほどのお追従を述べ立て、それこそ「犬の真似をしろ」と言われれば三ベン回ってワンと吠えかねないくらいの服従ぶりだ。だからこそその憎しみは深く暗い。

 俺の計画にはまさしくうってつけの人材と言うべきだろう。

 そう。これは反乱だ。首魁は代々の名門の出身で実力もある董瓶[トンピン]であり、俺はそれを影から援助する役割だ。少なくとも董瓶[トンピン]はそう信じている。

 もちろん俺はそんな馬鹿げた事をするほど人生に飽きてはいないし、貴族共や将軍達がいくら愚かとはいえ、董瓶[トンピン]を新皇帝に仰ごうなどと本気で考えるほど脳は腐っていない。第一、忌々しい事に燎帝[リアンティ]は軍や実力者の大半から支持されているのだ。

 だからあの猿をうまく使ってまずは燎帝[リアンティ]を殺させる。その後、「たまたま」そこに居合わせた俺の部隊がその反逆者を誅殺するのだ。

 皇帝弑逆者を誅殺したとなれば他の将軍や官僚共を抑える事ができる。燎帝[リアンティ]には皇子がいない。となればそのまま実質的な燎帝[リアンティ]の後継者になる事も出来よう。

 扉を叩く音がした。

「入れ」

 入ってきた男は三人。いずれも俺の腹心だ。

「宋将軍。得からの連絡です」

 那崑[ナコン]が油紙で厳重に封をされた書簡を俺に差し出した。小刀で封を破り、中に入っていた一枚の紙に記された記述を読む。

『三毛猫の好みは判明。餌付けには二を足すべし。手長猿はいつも通り』

 なるほど。皇帝の予定を入手できたということだ。決行日は当初の予定よりも二日遅らせるほうがよいと言う事は、その日になにか皇帝を暗殺するのに都合の良い行事があるということだろう。そして董瓶[トンピン]はなにも気づかずに自分が皇帝になる日を今か今かと待っている……。

 俺はもう一枚入っていた紙を取り出した。皇帝の予定が事細かに書いてある……はずだが、暗号で書かれているのですぐにはわからん。まあこれは那崑[ナコン]に解読させよう。

 隠語や暗号を使っているのは伊達ではない。この俺は二年前に稜曄[ロンファ]に服属した身で、今では実権はほとんどないとは言えそれなりの地位についている。だが、監視もされないほどに信用されているとは思っていない。この屋敷にも何人かの稜曄[ロンファ]の監察が潜り込んでいるはずだ。皇国に反乱を起こすなどと言う大事を屋敷の中とはいえ声に出して話し合うほど俺は不用心ではない。

「得に伝えろ。了承する、と。やるぞ」

「ハッ!」

 那崑[ナコン]とその副官の費洋は敬礼した。ヌーガはいつものように黒い彫像のごとく、ただ静かに立っている。敬礼もせず、ろくに俺の方を見もしない。見ようによっては無礼だろう。

 だがヌーガは信じるにたる男だ。十数年前から俺に仕えている剣士で、常に俺の護衛を勤めてきた。ガドゥオの出身だという事だが、本当のところはわからない。わかっているのは凄まじい剣の遣い手で、何度も俺や部下の命を救ったという事だ。ヌーガ自身も重傷を負った事も一度や二度ではない。

 言葉がわからないわけではないが、生来無口の質だ。そして今、俺の方をろくに水に壁や天井、床ばかり見ているのは聞き耳を立てている不埒な輩がいないか、気配を探っているのだろう。常にまわりに気を配り、油断をしない男だ。

「部隊の手配は問題ないか」

「は。補給に多少の遅れが発生した事にいたします。幀演習場は十日間押さえておりますので二日程度ならばどうとでもなります」

 反乱のその当日、俺達は皇都のすぐ近くにいる必要がある。だがなんの理由もなく俺達がそこにいるわけにはいかない。そんな都合の良い事があるはずがないから、すぐに俺達が反乱の黒幕だとわかってしまう。

 よって俺達は皇都から一日ほどの距離にある幀演習場での演習を申請していた。重砲を撃つ事が許可されている演習場である。俺達はそこに向かう途中で「たまたま」反乱に遭遇してそれを鎮圧するのだ。

 もちろんそんな事は表向きの理由に過ぎない。だが理由を付けずに俺が任地を離れるような事があれば即反乱と見なされても文句はいえないのだ。

 しかしそのような面倒で息の詰まるような状況もあと数日で終わる。成功するにしろ、失敗するにしろ、だ。そして成功すれば俺は稜曄[ロンファ]皇国を統べる至天の身になるのだ。

董瓶[トンピン]

 扉を閉め、儂は丸めていた背を伸ばした。外界の塵を払うように肩を振り、大声で副官を呼ぶ。

爾志耶[ジチーヤ]!赤湯を入れろ。いくらか隗酒を垂らしてくれ」

「は」

 もう二十年も俺に仕える副官は皺の一筋も動かさずに頷いた。昔から無愛想な男だったが最近はさらに無口に、無表情になってきておる。

 その理由はわかっている。こいつは儂の計画が気に入らないのじゃ。儂があの傲岸不遜な若造を廃してこの国をあるべき姿に戻そうとしておるのにな。まあこいつも歳寄った。今さら権力をその手にするよりも孫でも抱いて笑っていたいと思うのじゃろう。

 だが儂はそのような消え去り方をするつもりなど毛頭ない。確かに十年前、皇統はすでに汚れきっていた。先帝は暗愚と言うも愚かなほどに国事を顧みず、高官共も仕事はそっちのけで争って私腹を肥やしておった。地方は乱れ、軍は弱体化し、もはや皇国は滅亡の縁にあった事は儂も認める。だが……それを正すべきは儂等であった。あるべきであり、その計画も気概もあった。

 それをあの餓鬼が横からかっさらいおった。先帝の三男ではあったが皇位継承権には遠く、所詮は途中で殺されるかせいぜい一生を田舎に幽閉されて過ごすはずだった鼻つまみ者じゃ。それが下賤の者共と語らい、腕が立ち頭が切れるが身分の低い者共を糾合して反乱を起こしたのじゃ。あの一夜で皇帝家は皆殺しにされ、高官達も斬られ、追われた。その親殺し兄殺しの人非人が建てたのが今の皇国じゃ。

 つまり、間違っておる。

 そのような乱れきった皇帝家などもはや不要じゃ。今、この国に必要とされているのは儂のような由緒正しい名家の出の男であって、あのような小賢しい若造ではない。軍人としてその能力を内外に示し豹騎将軍として軍の序列第三位に就く儂こそがその役を果たさずして、誰が果たすのか。

「計画がいよいよ動き始めたぞ。お前にも働いてもらわねばならんな」

「……お館様のご指示のままに」

 爾志耶[ジチーヤ]が俺の前に赤湯を置いた。ほどよい温度のそれを含むとまろやかな甘みが喉に広がった。隗酒の酸味がその甘みをさらに引き立てる。

爾志耶[ジチーヤ]、お前も喜べ。わが董家がついにこの国を正すのだぞ」

「は。まことに素晴らしきことかと。ですが、私は宋典[ソンテァン]が信用なりません。あの男は必ずやお館様に不幸をもたらします」

「案ずるな」

 儂は笑った。確かに宋典[ソンテァン]は油断ならぬ男。だが今のところ奴が語る事は真実じゃ。軍の序列第二位たる虎綾将軍の楓帆は儂への援助を直接申し出てきたし、各地の将軍達も次々に内応を約束した。儂の予想を超えて燎帝[リアンティ]への反感は広がっていたのじゃ。ここで儂が立ち上がれば次の皇帝は儂以外にはいない。そうなれば宋典[ソンテァン]ごときがなにを企んだところで無駄な事じゃ。

「所詮は敗軍の将だ。多少の軍才があるとはいえ、今や日陰で飼い殺される狐に過ぎん。まあこの儂を皇帝に担ごうというのだから目は悪くない、せいぜい使ってやろう」

「そのような小物ならよろしいのですが」

 ほとんど表情の変わらぬ顔にわずかな非難の色を見せながら、それでも爾志耶[ジチーヤ]は引き下がった。事ここに至ればもはや止めようはないのじゃ。今さら何を言ったところで儂の決心は変わりはしない。

「どれ、有得芽飯店に行こうか。馬車を用意せい」

「お館様、恐れながらしばらくご自重下さいませ。大事を前に控えたお体です、しばらくは屋敷にてお過ごし下さりますよう」

「……ふむ」

 面白くない。だが爾志耶[ジチーヤ]の言う事はもっともじゃな。あと数日で皇帝になろうという身が、軽々しく街に出てはなるまい。

「よしわかった。ではせいぜい美味い酒と飯を用意せい。今夜の伽は尊真にしようかの」

「は」

 儂はこのところ気に入りの妾を指名した。

 皇帝になれば尊真を皇后にしてやってもよいな。ぶくぶくと太ってくだらぬ悋気を振りまくだけの妻は皇后にはふさわしくない。若く美しい尊真ならば皇后の姿も似合うじゃろう。

 儂は輝く未来を予感しつつ、柔らかな長椅子に身を沈めた。

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