第十段 強攻と女装

菊花[チーファ]

 私達は皇宮へと向かうことにした。とにかく今の兵力ではなにもできないもの。

 恐慌状態で逃げ出した観客の人達の誘導はなんとかうまく行ったみたい。だけど落成式会場の広場には怪我をした人が何百人も残されていて、警備の人達は全員そちらの救助に回されてる。結果として今の皇帝には三十人ほどの黄鋭[ファンルイ]衛士と[リャン]の五十人しか動かせる戦力はないのよね。

 また敵が襲ってくる可能性は高いから、私達は固まって防御態勢を取りつつなるべく人目につかないように細い道を進んでいた。もし敵がかなりの大部隊でも、このような道ならば数の優位よりも質の優位の方が有効になるわ。

 皇帝を中心にして黄鋭[ファンルイ]がその前後左右を固め、その外側を[リャン]の隊員が守ってる。さらに一番前と一番後ろは黄鋭[ファンルイ]が守るという配置ね。ちなみに私と棉紗[ミアンシャ]、ラティアは皇帝のすぐ傍にいる。兄様も一緒よ。

 ちょっと予想してなかったんだけど、皇帝は背の低い人だった。それにもう四十近いはずなのに二十歳を幾つか出たくらいにしか見えない。顔立ちも柔らかくて、なんとなく女の人みたいな雰囲気すらあるわ。これが本当にあの『炎の獅子』なんて言われる燎帝[リアンティ]なのかしら。

「敵の規模は少しでもわかるのですか」

 閃さんが黄鋭[ファンルイ]の一人に訊いた。ひときわ目立つ大きな男の人で、親衛隊長のような役目みたい。ということはこの人も『数持ち』なんだと思う。

「今のところまったくわからぬ。というよりも誰が首謀者なのかもわかっておらん。情けない事だ」

「爆発は五ヶ所でしたね。いずれもかなりのものでした。被害ももちろんですが、警察や火消し、警護隊もそちらの救助に人出を取られているのではありませんか」

「それは間違いないな。物見を飛ばしているからすぐにある程度の状況は」

 と、前から一人の剣士が走ってきた。前衛の黄鋭[ファンルイ]に軽く手をあげてこちらに来る。と言う事はあれはこちらの味方ね。

「陛下。反乱の首謀者が判明いたしました。豹騎将軍の董瓶[トンピン]です。すでに皇宮は陥落いたしました」

「……奴か。皇宮にいた者達はどうなった」

 そうか。皇宮にはこの人の家族とかがいるんだ。戦闘員じゃない人もたくさんいるわよね。

「警備兵はほぼ全滅です。しかしながら高官の方々や事務方は内宮に立て籠もり、まだ抵抗されております。一日は持つでしょう。皇族の方々もほとんどは内宮におられると思われます」

「そうか」

 皇帝はわずかに息をはいた。この人も家族とか部下の人とかを大切に思ってるのね。

「敵兵力はわかるか」

「は。脱出した警護兵の証言では皇宮を襲ったのはおよそ千人ほどと思われます。しかし都内にはほとんど敵兵はいない模様であります。都内は皇都警察と特務警察によりほぼ掌握されています」

「わかった。呟尹、外部の偵察は行ったか」

「いいえ、まだであります」

「すぐに偵察しろ。必ずまとまった軍が居るはずだ。見つけ出してどこの誰かを探り出せ」

 ニヤリ、と皇帝は笑った。普通の人がそういう笑い方をすると下品にしか見えないけど、さすがに皇帝。そういう笑い方も様になってるわ。

「まさか董瓶[トンピン]が独力で反乱など起こせるはずがない。必ず皇都の外に真打ちがいるぞ」

「……はっ!確かにその通りであります。すぐに調査いたします。陛下はどうなされますか」

「俺は特務警察本部に行く。報告はそこに入れろ」

 剣士は一礼するとまたどこかへと走っていった。

 私達はまた移動を始める。今度は皇宮へではなく、ここから近い特務警察本部に行くみたい。確かに敵に制圧されている皇宮に向かっても仕方ないわね。こちらの戦力は百名足らずで皇宮を奪回するなんて無理なんだし、第一皇帝がのこのこ敵の前に現れるなんて虎の前に羊を置くようなもの。

 ならば皇都の外に出て楠屯に向かうというのも一つの手よね。そこには五千人の第一重杜集隊がいて、常に戦闘態勢にあるはずだもの。けれど皇帝の言うとおり、皇都の外に真の黒幕がいるのであればそれこそがもっともしてはならない行為ってことになる。

 それにしても皇帝が極めて優れた軍人だってことは間違いないわね。限られた情報しかない極限状態でもまるで雲の上から地面を見ているような指揮ぶりだわ。

「よし、特務の本部に急ぐぞ。そこで指揮をとる」

 その声に答えて私達は走り始めた。……私は兄様の背中に乗っていたけれど。

宋典[ソンテァン]

「そうか」

 俺は装甲馬車に寄りかかって腕を組んだ。伝令が持ってきた報告はかなり難しいものだった。

「皇帝の暗殺に失敗……か」

 もちろんそのような事態に対する作戦は立ててある。だが問題はほとんど確実であったはずの皇帝暗殺が失敗した理由だった。

「暗殺隊を阻止した連中は何者だ」

「わかりません。ただしかなりの手練揃いではありました。黄鋭[ファンルイ]衛士と同等かと」

「そんな遣い手揃いが民衆共の中に伏せられていたというのか。皇帝の隠し兵か?そんな話を聞いたことはないぞ」

「自分の見る限りではそのような存在ではないと感じました。黄鋭[ファンルイ]の者達も驚いておりましたので、第三勢力的なものかと思われます」

「鍵はそいつらだ」

 俺は歯を噛みしめた。

 その正体不明の武装集団の戦力によってこちらの取るべき行動は左右される。本来ならば皇帝暗殺に成功しようと失敗しようと、俺達は皇帝が暗殺されたという情報を得た事にしてすかさず皇都に侵攻することになっていた。もし暗殺に失敗していたとしてもその過程で皇帝を殺し、董瓶[トンピン]を始末する。その後「皇帝は董瓶[トンピン]に暗殺されたので〜」ということにしてしまえばよい。

 問題なのは楠屯の第一重杜集隊だ。万が一、その武装集団が我々を数時間拘束するだけの戦力を持っていた場合、我々は第一重杜集隊に『救援』されることになる。そうなれば反乱もなにもあったものではない。皇都侵攻はあくまでも第一重杜集隊の皇都到着前に決着をつけねばならぬ作戦なのだ。

「皇都に突入すべきです」

 那崑[ナコン]が進み出た。

「例えその者達が黄鋭[ファンルイ]並みの戦力を持っていたとしても、所詮は銃と剣しか持たぬ歩兵にすぎません。皇宮はすでに我らの手に落ち、皇都警察も特務警察も戦力としては取るに足らず、皇帝の側にある兵力は多く見積もっても数百です。我ら四千が戦えば多少の損害はあるにせよ、負ける事はあり得ません」

 確かにその通りだった。我々は三個杜隊を擁し、しかもそれは砲兵、銃兵、剣兵、そして騎兵を揃えた四方編成だ。剣士のみの敵兵などいかに腕が立とうと敵ではない。皇宮に拠って戦われれば話は別だが、皇宮はすでに我等の手に陥ちた。つまり皇帝側には勝ち目はない。

「むしろここで退いて万が一あの董瓶[トンピン]が生き延びた場合、何を喋るかわかったものではありません。閣下、今こそ決断の時ですぞ!」

「よしわかった!」

 俺は腕組みを解いた。周りに立つ士官達に呼びかける。

「告げる!敵は皇国、そして燎帝[リアンティ]その人だ!今から我らは皇都へとなだれこみ、力を取りもどす。事が成った暁には我らが皇国を支配するのだ!」

「……おおおっ!!!」

 歓声が上がった。ここにいる者達は皆、自らの誇りに殉じた戦友達とは違い、皇国に膝を屈する事で生き延びてきた者達だ。だからこそ再び太陽に顔を向けて生きていきたいという気持ちは人一倍強い。

 もちろん俺もその独りだ。

「進撃!皇都へ突入する!」

董瓶[トンピン]

 老人共と事務屋、使用人共が立て籠もる内宮。そこは皇宮の中に作られたもう一つの皇宮じゃ。壁は厚く、塀は高く、周りには幅広い濠が巡らされておる。もし百人の兵があればここは千人の寄せ手に耐えるじゃろう。

 だが今やその中にいるのはひ弱な文官共に庭師、調理人、女中の類じゃ。こやつらを引きずり出し、あの皇帝の前で見せしめとして八つ裂きにせねばならぬ。

「まだ内宮は陥ちぬのか!」

 儂は名前も知らぬ中樹を怒鳴りつけた。先ほどまでは「半刻ほどお待ち下さい」などと大口を叩いておったくせに、今だ濠も越えられずに兵を損なっているだけの無能者じゃ。

「存外に抵抗が厳しく、しかしながら必ずや」

「あと一刻後に同じ事を申せば、そちは死罪じゃ。わかったか」

「……ははっ、全力を尽くします」

 中樹は血相を変えると走って執務室を出て行った。

「ふん、なんじゃあの中樹は。最近の軍の質の低下は眼に余るわい」

 儂は皇帝執務室の椅子─もちろん皇帝の座る椅子じゃ─に深く身を沈めた。さすがは皇帝の椅子、一見質素ではあるが座り心地は最高じゃ。まあこれからは嫌でもこの椅子に座らねばならんのじゃがな。

「お館様、我らは皇宮を抑えるだけでよろしいのでしょうか。燎帝[リアンティ]は特務警察本部にいるとわかったのですから、こちらから打って出るべきでは」

爾志耶[ジチーヤ]、お前は良い家令であり得難き副官じゃが、軍の事に関しては何もわかっておらぬな」

「は。不調法にて」

「よいか。もはやあの男の運命は決したも同然じゃ。なんとか刺客からは逃げ出したようじゃが、もうすぐ宋典[ソンテァン]の部隊が皇都に入ってくる。元皇帝の始末などあの者に任せておけばよい」

「我らが無理に動く必要はないと」

「そうじゃ。それにどう言い繕おうと主殺しは晴れがましい事ではない。じゃが儂が先帝殺しの汚名をわざわざ着ずとも、宋典[ソンテァン]が進んでやってくれる。何しろあの男も元皇帝には恨みがあるからの。まあいずれはそれを罪として粛正してやればよかろう」

「それはそうでございますな」

 爾志耶[ジチーヤ]も納得したようじゃ。

「さすがはお館様、今後の事までお考えでございましたか」

「当然じゃ。儂が作る新皇国にあのような下賤の者は必要ない。出自の確かな選ばれた男達が今度こそ皇国の中枢を担うのじゃ」

猷示[ユウシ]

 皇都は皇国の城塞都市の中でもかなり巨大な都市だ。形はほぼ正方形で、その周囲を高さ十米もある頑丈な城壁に守られている。城壁は一辺が三から四公里もあり幅は十米以上。壁の上には要所に望楼や矢倉が作られていて、防御力はかなりのものだ。

 特務警察本部は皇都の東側にある五階建ての建物だ。周りを塀に囲まれてはいるが、濠は掘っていない。いつ敵が皇宮から襲撃してくるかわからないこの状況ではやや頼りないといわざるを得ないが、今から工事をするわけにもいくまい。代わりとして特務警察の剣士が四隅を固めてはいるが、その数はわずかなものだった。大半が爆破事件の救援に派遣されたままなのだ。その爆破事件そのものがこの反乱の陽動に過ぎないのだが、だからといって放置も出来ないということなのだろう。

 俺達はその三階にある食堂に集まっていた。皇帝は窓から離れた位置に座り、その左右には黄鋭[ファンルイ]衛士が立っている。窓は卓を打ち付けられて完全にふさがれていた。はっきり言って暑い。

「呟尹を待つしかないな」

 皇帝は水を口に含んだ。うまそうに飲み干す。俺達にも好みの飲み物が振る舞われているのだが、俺はまだ口を付けていなかった。

 俺達がここで篭もっている理由は、他に何も出来ないからだった。現在皇帝が動かせる兵力はわずかに百を越える程度……つまり俺達だ。皇宮という一種の要塞に陣取っている千人の兵に敵うはずがない。となると頼みの綱は楠屯の兵だが、これも来るまでに時間がかかる。こちらから迎えに行こうにも皇帝の読みによると皇都の外には真の黒幕が待機しているはずであり、その中に飛び込むなど論外ということだ。しかし外に敵がいるとなると楠屯の兵もそれに阻止されるのではないか?

「閃さん。ここにいていいの?」

 菊花[チーファ]が閃さんの袖をひいた。

「どういう事ですか」

「もし皇都の外に敵がいた場合、どうすると思う?皇帝暗殺に失敗して、互いに手詰まりで、しばらくしたら楠屯から五千人の軍隊が応援に来るのよ。黙ってみているなんてありえないわ」

「……確かにそうですね。道化は役に立たず、このままでは黒幕が引きずり出されるのは時間の問題。もしその黒幕に多少の知恵があれば」

「自ら俺を殺しに来るというわけか」

 皇帝が菊花[チーファ]達の後ろにいた。……この男、武術の方も相当に出来るな。

「そうですね」

 閃さんは何事もなく答えているが、菊花[チーファ]は固まっている。やれやれ、まだ子供だ。

「君、名前は」

「……ち、菊花[チーファ]で……す」

 あの頃は菊花[チーファ]はまだ物心つくかつかないかの年頃だった。菊花[チーファ]にとっては皇国への恨みは俺から聞かされた事だけで、実感はあまりないだろう。だから皇帝と会ってもどういう態度を取ればよいのかわからないんだろうな。俺なら反発、ラティアなら同等に対応するところだが。

[リャン]の者か?まだ歳若いようだが」

 しかしそこはさすがに俺の妹。すぐに自分の取るべき態度を選んだらしい。そしてそれはもちろん正しい。

 菊花[チーファ]は一瞬でも気圧された事を恥じるように顔を上げ、力強く宣言した。

「私は猷示[ユウシ]の妹よ」

「ほほう。鉄盾[ティエジュン]の、か」

 皇帝は俺をちらりと見た。なぜか楽しそうな眼をしている。俺はその眼をにらみ返した。

「その歳にしてかなりものが見えているようだな。つまり俺はこんな所で休んでいる場合ではないと言う事か」

「ええ。ここは目立ちすぎるし、防御の面でも力不足だわ。皇都にはここよりもマシな防御施設はないの?」

「皇宮ぐらいしか思いつかないな。袙安、お前はどうだ」

 皇帝の側に立っていた長身の剣士は首を振った。というか今、皇帝は「袙安」と呼んだな。つまりこいつが『十二番』の紬袙安[チュウバツアン]か。斬山剣の遣い手で、拮城攻防戦で完全武装の兵、十五人を斬って有名になった男だ。

「残念ながら私にも心当たりはございません。せめてここぐらいはもう少し固めておくべきでしたか」

「まあそれは後で考えよう。じゃあどうすればいい」

「街中に隠れるべきね。分散して逃げ回るのよ。運が悪ければ捕捉されて殺されるけど、逃げ切れる確率も低くはないわ。けれどここにいたら間違いなく包囲されて殺されるだけよ」

「旻」

 鋭い目と太い眉を持った背の低い年配の男が進み出た。

「その少女の言うとおりやな。今すぐここを出たほうがええ。敵さんが来てからじゃ遅いで」

 その時、男が一人駆け込んできた。ああ、さっき路地で会った男だ。

「陛下!いました、緑舵門の外に三個杜集隊規模の兵です!」

「指揮官は」

宋典[ソンテァン]です!」

ラティア

「へえ、あいつか」

 皇帝は面白そうに笑った。

「このまま有能な将軍として仕えてくれればよかったんだがな。あいつの性格の強さじゃ無理か。いや、俺にあいつを従わせるだけの器量がなかっただけか」

 ずいぶんと率直な意見だ。

「その男は何者なの」

「元は中程度の軍閥の長をやってた男だ。軍人としても政治家としてもなかなかの男で、人望も野心も人一倍という奴だな。生まれる時代が俺と同じでなければそれなりに頑張れただろうが、あいにくと今は俺がいたからな。二年ほど前に部下ごと俺に投降したわけだ」

「で、裏切ったというわけね」

「元からそのつもりだったのかどうかは知らんがね。董瓶[トンピン]なぞを道化にして俺を殺すつもりだったらしいな。生憎とお前達のおかげでそれに失敗したから、今度は自分で始末をつけるつもりだろう」

 菊花[チーファ]は「でも」と親指と人差し指を顎に添えた。兄の仕草を無意識に真似ているのだろう、可愛らしいことだ。

「あなたの部下はそんな事をした男に従うの?」

「表向きは董瓶[トンピン]が俺を殺した事にするだろうさ。自分は主君の仇を討った忠臣、というわけだ。そうなれば少なくとも影響力はかなりのものになる。後々の政治次第じゃ宋典[ソンテァン]が皇帝という世も来るかもしれんな」

「我らがそのような事はさせませんが」

 紬袙安[チュウバツアン]が苦笑した。

「無論宋典[ソンテァン]はそんな事はわかっているでしょうから我らも皆殺しにすべく、皇都に乱入することでありましょう。この場所もすでに知られている事と思われます。そこの小さな軍師殿の言われるとおり、今すぐにここから出るべきかと思われます」

「小さいは余計よ」

 菊花[チーファ]が小さな声で文句を言う。

「よしわかった。俺はこいつらと一緒に行く。袙安、[リャン]三人と衛士二人で五人組を作り、皇都内で敵を攪乱して時間を稼げ」

「こいつら、とは」

鉄盾[ティエジュン]とその妹、ラティアレーム、それに棉家の娘だ」

「いけません!」「棉家と知っていたのか!」

 紬袙安[チュウバツアン]と私の声が重なった。

「陛下がこのような者達と共に行かれるなど承知するわけには参りません。我等が命を賭けてお守り申し上げます」

 皇帝は「まず一つずつだ」と私に手のひらを向けた。紬袙安[チュウバツアン]に顔を向ける。

「袙安、今はとにかく[リャン]の者達の協力が必要だ。それには俺とラティアレームが共にいる事が何よりの理由になると思わんか。俺が死ぬ時はラティアレームも死ぬとなれば、[リャン]の者達も手抜きはすまい」

「おっしゃる通りかと。我等は恐れながら陛下よりもラティアレームを大切に思っておりますゆえ」

 閃兄が軽く礼をした。

「では鉄盾[ティエジュン]と一緒に行かれるのはおやめ下さい。せめて黄鋭[ファンルイ]より二人はお連れ頂かないと」

「しかし鉄盾[ティエジュン]はラティアレームの保刃[バオレン]ではないのか」

 皇帝に他意はないと思う。だがそう言われると嬉しいような恥ずかしいような気持ちになるのは何故だろう。

「そうだ。俺はこいつに雇われた保刃[バオレン]だからな」

 猷示[ユウシ]は頷いた。その言葉にまた少し嬉しくなる。

「それにこいつの腕はなかなかのもんだ。珀皙[ハクシ]を斬っただけの事はある。袙安、お前だってあいつに勝てるとは断言出来ないだろう」

「……それで思い出しました。こ奴は我が剣友の仇でありましたな」

 紬袙安[チュウバツアン]はギロリと猷示[ユウシ]を睨みつけた。その眼差しには殺気がこもっている。

「その話は後だ。まずは生き延びて宋典[ソンテァン]の奴を串刺しにしてからの事だろう。いいか、お前達は敵の指揮官を狙って軍としての行動を妨害しろ。言っておくが死ぬ事は許さん。瑪芫が来るまでとにかく時間を稼げ。よいな」

「……わかりもうした。仰せに従います」

 紬袙安[チュウバツアン]は頭を下げた。次は私の番だ。私は棉紗[ミアンシャ]の方を抱くと皇帝の顔を見た。すると皇帝は当たり前の事を聞くな、といいたげな眼を私に向けた。

「あのな、俺は去年会ったばかりの少女を忘れるほど物覚えが悪くはないぞ」

 その言葉に怒りが燃え上がる。

「ではそなた、顔を覚えている娘が殺されるとわかっていて黄鋭[ファンルイ]や特務を差し向けたのか!」

「政治ってやつだ。皇帝の知り合いだからと言って刑罰が左右されては他の者に示しがつかん。お前だって商隊を率いる身であればわかるだろう」

「……くっ」

 確かに皇帝の言う事はわかる。わかるが……。

「陛下のおっしゃる事はわかります」

 棉紗[ミアンシャ]が進み出た。

棉紗[ミアンシャ]、」

「ラティアさん、ここは私にお話をさせて下さい」

 止めようと伸ばした手を引く。棉紗[ミアンシャ]の眼は強い決意を示していた。

「我が父は祖父を殺し、陛下と皇国に従わぬ決意を固めておりました。陛下がそれに対するに棉家の誅殺をもってされた事、当然の事と思います。ですから私は陛下に恨みは抱いておりません」

「そりゃずいぶんと諦めのいいことだな。一族皆殺しにされても恨まないってか?」

「私を可愛がって下さった叔父や叔母、従兄弟、そして年端もいかぬ子供達まで誅された事は正直許せません。しかしそれは貴族としてこの世に生を受けた以上、避けて通れぬことです。陛下、父は私を逃がす時に陛下をお恨みしてはならぬと言い聞かせられたのです。ですから私は……」

 棉紗[ミアンシャ]はこぼれる涙を隠そうとはしなかった。

「陛下が喜んでそのような命令を下されたわけではないこと、わかっています。ですからラティアさん、私の為に怒って下さらずとも良いのです。嬉しいです、ですけど」

「わかった。もう良い、私とて皇帝にここで殴りかかるほど愚かではない」

 この前までの私ならここで怒りにまかせて取り返しのつかない事をしたかもしれない。だが、私は猷示[ユウシ]との確執で少しは学習していた。

 人にはそれぞれ立場がある。私の身からは許せない事でも、その人にはその人なりの理由があるのだ。もちろんだからといってそれを認める事が出来るかとなるとまた別の話だが。

ヌーガ

 ボクは爆破された緑舵門から中に入った。ほとんど原形をとどめていない門の破片に混じって、これも原形をとどめていない門番兵の死体が見える。別に問題ない。死体は抵抗しないから。

 宋軍の兵の死体も転がっている。これも問題ない。あたりはすでに制圧済みで、敵の狙撃兵のいそうなところには宋軍の兵が突入している。

「盾などいらん。急げ!」

 宋典[ソンテァン]様が近衛を押しのけながらボクに続いて入ってくる。

「雑兵に構うな!目的はただ一つだ、行けい!」

 緑大路を真っ直ぐに駆ける。まわりは宋軍の兵で埋められていた。

「我等は宋軍である!豹騎将軍の反乱鎮圧の為に来た!道を空けろ、邪魔をすれば陛下と皇国に楯突く者として容赦はせぬぞ!」

 声の大きい兵が口々に叫びながら先頭を走る。通りに出ていた人達は我先にと逃げ散っていく。その時、その兵達が銃声と同時にバタバタと倒れた。

「敵襲!」

 素早く銃兵が射撃姿勢を取る。ボクは共に走っていた宋典[ソンテァン]様の前に立ちふさがった。

 パパパン!

 銃兵達が敵が撃ってきた方向へと射撃を開始した。

「構うな!ほんの数人だ、取るに足らん、進め!」

 宋典[ソンテァン]様はびくともしない。軍はまた走り出した。

 門から特務本部までは四半刻はかからなかったけど、そこにはもう誰もいなかった。門を守る兵の一人もいない。

「さすがだな……」

 宋典[ソンテァン]様はお笑いになった。

「生き残る事に関してもなかなかどうして大したものだ。どこに隠れた?」

「将軍、三毛猫は数人の部下と共に都内に潜伏しているとの事であります!青帆門の方へと向かったとのこと!」

 那崑[ナコン]が物見らしい男から報告を受けて叫んだ。

 ちぇっ、ボクが物見だったらそんな報告の代わりに皇帝を斬ってその首を差し出したのに。

「よし、幹隊単位で捜索!武装している数人の剣士だ、すぐにわかる!ここから北側をしらみつぶしに捜せ、民家の中とて見逃すな!」

 宋典[ソンテァン]様の命令に従い、兵達が散らばる。

 とその時。ボクは隣にいた近衛から盾を奪うと宋典[ソンテァン]様の右側に動いた。

 ガガン!

 盾に銃弾と幾筋かの矢が当たって弾ける。盾を奪われてうろたえていた近衛の首筋に一筋の矢が突き立った。

「助かったぞ」

 宋典[ソンテァン]様を狙った狙撃だ。あ、近衛は即死だ。まあこんな時に宋典[ソンテァン]様を守れない近衛なんて生きていても仕方ないよね。

「周囲警戒!五十米以内には絶対に敵を入れるな!」

 那崑[ナコン]が叫ぶ。うん、こいつはあまり好きじゃないけど判断は確かだ。そのくらいの距離があればボクは銃や弓からでも確実に宋典[ソンテァン]様を守れる。

 キュン!

 不意に空に一条の花火が上がった。特務本部の屋上から発射されたそれは、派手な赤い煙を噴いてかなり上空まで上がっていく。

「ち、三毛猫め……物見を残していたか」

 へえ。さっきの狙撃兵はただの残党じゃなかったんだ。ボク達がここに来た事をどこかにいる皇帝に知らせたんだな。ずいぶんと敵は頭が回るみたいだ。

 でも頭の良さでも宋典[ソンテァン]様は皇帝なんかには負けない。

 那崑[ナコン]もその点ではまったく宋典[ソンテァン]様を疑ってはいない。一瞬だけ花火を見ていたけど、「だからなんだ」って顔で向き直った。

「将軍、皇宮はいかがいたしましょう」

「そうか。あの芋役者の出番もそろそろ終わりだな。よし、始末して向こうの兵を三毛猫狩りに回せ。百名も守備に残せばいいだろう」

「は、伝えます!」

 那崑[ナコン]が伝令を走らせた。ふうん、あの尊大な董瓶[トンピン]とかいう太った男の役目は終わったんだ。ボクが斬ってあげたかったな。『将軍』なんて呼ばれている男が死ぬ時にどう泣き叫ぶのかちょっと興味がある。

 ああ、宋典[ソンテァン]様は別だよ。この方は最後の時でも命乞いなんかしないから。

 いつでもそうだった。常に前線に立つ方だから、何度もそんな事はあった。でもこの方が取り乱された事は一度もない。剣士に取り囲まれた時も、銃撃の嵐の中で伏せるしかない時も、そして砲撃の中で泥に埋まった時も。

 ボクが腹を刺されて死にかけた時、この方はご自分も腕を斬られていたのにボクを抱えて数公里も走られた。ボクが死にかけていてもこの方はそれを見捨てて逃げるのが当然の立場なのに。もしそうされてもボクは宋典[ソンテァン]様を恨んだりは絶対にしなかった。でも、ボクは宋典[ソンテァン]様に命を救われた。

 だから、ボクはこの方を絶対にお守りするんだ。

棉紗[ミアンシャ]

「あ、花火です」

 窓の外を見ていた私はさっき逃げ出してきた建物の方向から、赤い煙を引いて花火が上がったのに気がつきました。

「もう来たのね。さすがに速いわ」

 菊花[チーファ]さんが呟きました。

 私達はあの本部から一公里ほど離れた、爆発の起こった北市場にある八百屋の二階に隠れていました。住民の人は避難したらしく、あたりに人影はありません。

 ラティアさんは窓から眼だけを出して外をうかがいました。

「だが我等を見つける事は難しいのではないか?このまま隠れていれば」

「それはどうかしら」「それはどうかな」

 菊花[チーファ]さんと陛下の声が重なりました。互いに顔を見合わせて、なんとなく譲り合うみたいな雰囲気です。

「で、どういう事だ」

 部屋の扉近くに立っている猷示[ユウシ]さんが少し不機嫌な声で続きを促しました。多分、陛下と菊花[チーファ]さんがなんとなくわかりあっているような感じが気に入らないのだと思います。

 ……前々から思っていたのですが、猷示[ユウシ]さんは陛下になにか含むところがおありのようです。やはり、過去に何かあったのでしょうか。

 いつか、話してくれるでしょうか。

「その宋典[ソンテァン]って人が話通りの切れ者なら、私達が特務本部から出てくる時も物見をつけていたと考えるべきよね。なら、私達の逃げた方向くらいは知られてるはずよ。部隊をある程度分割して特務本部からこちらに向かって扇状に捜索していくんじゃないかしら」

「奴の率いていた兵は三個杜集隊、四千ほどだ。ついでに皇宮を占拠している兵がだいたい千いる。今、皇宮を大事に抱えていても何の役にも立たんのだから、それも迷わず使うだろうな。五千の兵で捜索されれば逃げ切れるとは思えん」

「だが皇宮には董瓶[トンピン]とか言う男がいるんだろう。そいつが兵の引き抜きに同意するか?」

「ああ、あいつならもう殺されてるだろう。もう役目は終わりだ」

 陛下はまるで「手を拭いたら手拭いはいらんだろ?」と言うような口調で猷示[ユウシ]さんに答えられました。猷示[ユウシ]さんも「ああそうか」などと当然のように答えています。そんな時、私は猷示[ユウシ]さんがとても怖く思えます。

「このままだと分が悪いわ。応援が来るまでに見つかる確率は五分五分よ」

「このまま青帆門から街の外に出るか」

 ラティアさんが門の方向を指さしました。ここからは門も城壁も見えませんが、だいたい半公里というところのはずです。走れば大して時間はかかりません。

「門の外に宋典[ソンテァン]の兵がいる事は確実だぞ」

「そうね。それに門は彼らに閉じられているでしょうし、そんなところに行けば袋の鼠よ」

「包囲の一角を斬り破るか。奴らが扇状に展開しているなら扇形の外側に出ればいいだろう」

「相手は本物の軍隊よ、兄様とラティでも無理だわ。手間取っている間に包囲されて皆殺しね」

「あの」

 私はおずおずと手をあげました。

「どうした」

 陛下が私に目を向けられました。

「変装、とかは駄目でしょうか」

「変装」

 ラティアさんが首をかしげました。猷示[ユウシ]さんも「なにを言い出した?」と言いたげな様子です。

「敵の人達は陛下を捜しているのですよね」

「そうだな。私達ではない」

「陛下は男の方ですよね」

「一応そのつもりだ。妻子もいる身だしな」

「では敵の方々は数人の女性と子供には興味を示さないのではありませんか?」

「……なにを言いたいかわかったような気がするぞ」

 陛下はここで初めて、困ったような顔をされました。

「俺に女装をしろというのか」

「それはいい考えかもね」

 菊花[チーファ]さんが微笑みました。意地の悪い微笑みですけど、菊花[チーファ]さんはそういう笑みもよく似合います。綺麗な人は得です。

「兄様は無理としても、あなたならなんとかなるわ。その豪勢な上着はそのへんに捨てて女物を羽織れば……そうね、ラティア。あなたの上着を貸してくれない?あとは頭から布でもかぶっていれば女そのものよ」

「私の上着をか」

 ラティアさんはとても嫌そうな顔をしました。陛下に貸す事が嫌なわけではなく、ラティアさんは肌を晒す事が嫌いなのです。真夏でも長袖を着ているのはそのせいだと前に聞きました。

「お願い。あと兄様、刀はここに置いていって。隠剣も駄目よ、ああこれはラティアも。武器の類は全部捨ててね」

「おい、それはいくら何でも」

「武装もしてない女子供に男が一人なら追っ手もごまかせるわ。中途半端は駄目よ、あなたも隠し武器を持ってるんなら捨ててちょうだい」

 菊花[チーファ]さんの指示に、猷示[ユウシ]さん、ラティアさん、そして陛下まで仕方なく武器をすべて取り出しました。

「じゃあ爆発のあった場所の近くに行きましょう。まだ警察か消防の人がいるかも知れないわ。その人達に焼け出された被害者ってことで保護してもらうのよ。ああ、兄様は怪我人ってことにするわ。ラティア、兄様の上着を使って腕を吊り包帯巻いてるみたいにしておいて」

 菊花[チーファ]さんは次々に指示を飛ばします。

棉紗[ミアンシャ]、あなた、髪が綺麗すぎるわね」

 そういうと菊花[チーファ]さんは私の頭に手を置くと、いきなりグシャグシャとかき回しました。

「えっ、あのっ」

「よーし、これでいいわ。私も」

 私の髪の毛をめちゃくちゃにしておいて、菊花[チーファ]さんは自分の髪の毛もバサバサにしてしまいました。

「あとは煤とか泥を現場で塗りつけるのよ。とにかく難を逃れた民間人のふりをするの。あとは兄様の言うとおり、扇形の外側に出れば何とかなるわよ」

 陛下はほれぼれと菊花[チーファ]さんを見つめました。

「これが終わったら俺の軍師にならんか。史上最年少の皇国軍師になれるぞ」

 菊花[チーファ]さんの答えは短く、そしてとても格好いいものでした。

「お断りよ。私は兄様の軍師なの」

丁峰[チンフェン]

 それを見たのはほとんど偶然だった。本部のある方向から空に高く上がった信号花火だ。色は赤。私の覚えている軍規則では赤は「敵襲来」とされる。

 そしてその信号花火は最後に炸裂すると、黄色の煙を撒き散らした。

「特務の信号花火ですね」

 上志も見ていたらしい。

「特務本部に敵、ですか。董瓶[トンピン]が皇宮から出てきたのでしょうか」

「あの畜生が出てきたとしてもなぜ特務本部に来るのだ?あそこには二、三十人が残ってるだけだろう」

 そこまで言って私は自分の頭の回転の悪さを心の中で罵った。

「……鼬が巣穴から出てくるのはそこに獲物がいるからだな」

「まさか、皇帝陛下が」

「上志、戻るぞ。集められるだけの手勢を集めろ!」

「ハッ」

 上志が敬礼をして駆け出そうとしたその時だった。

「待て!」

 私はふと気になる集団を見つけた。三十米ほど離れたところに無惨な姿をさらしている焼け落ちた飯店があるのだが、その横に数人の女子供が立っている。いや、呆然と、あるいは嘆きながらたたずんでいる人々はそこらにいくらでもいるのだが、私が気になったのは、その一団がなぜか焼け跡から煤を服にすりこんでいるように見えたからだ。

「上志、ついてこい」

 私は彼らに警戒されぬように何気なく近付いていった。市内調査の時に爆破事件に巻き込まれたから、私の服装はまったくそこらの商人と変わらない。上志もすぐに私の意図を悟り、まるで友人のように振る舞いながら私に続いた。

「何者ですか」

「わからん。だがわざわざ服を汚すような真似をここでするというのはおかしい。敵の間諜か……?」

 だが女が二名、子供が二名、男は怪我をした一人だけだ。怪我は偽装としても子供、それも少女が二人というのはどういう事だ。私と上志は彼らから三米ほどの所を通り過ぎながら横目で彼らを見て

「へっ……!」

 叫びかけた。

 一瞬の事だった。まるで風のように男が動き、私の口を塞いでいた。まったく同時に女の一人も飛び出し、こちらは上志の腕を極め、口を塞いでいる。

「黙れ」

 男が私を睨んだ。その顔には間違いない、炎の入れ墨が。

 だが私を心底驚かせたのは鉄盾[ティエジュン]ではない。ラティアレームであろう、美しい少女でもない。

 陛下……!

 そこには女の服を着てはいるが、間違いなく我が稜曄[ロンファ]皇国の皇帝陛下、燎帝[リアンティ]その人がいた。

「おう、丁峰[チンフェン]か。何してるんだお前はこんなところで」

 返事をせねばならないが、鉄盾[ティエジュン]は私の口を押さえたままだ。どこをどう押さえられているのか、身動きもできない。

鉄盾[ティエジュン]、ラティアレーム、離してやれ。お前達も余計な礼など取るな。目立ちたくない」

 やっと鉄盾[ティエジュン]が私から手をどけた。私は無意識のうちに膝をつきそうになり、あわててそのまま姿勢で陛下を見る。このような無礼を皇宮内ですればまず処罰はまぬがれまいが……。

「ご無事でしたか。特務本部におられるのかと思い、部下と共に向かおうとしておりました」

「ああ、いたぞ。だが宋典[ソンテァン]の動きが速くてな、逃げてきた」

宋典[ソンテァン]!敵は宋典[ソンテァン]なのですか!?」

 驚いた。だが同時に納得もする。あの男ならやりかねない。

「知らなかったのか。董瓶[トンピン]を操っているのは宋典[ソンテァン]だ。今頃俺達を捜す為に駆け回ってるさ」

「お守りいたします」

 そう答えた私は、だが聞くべき事を聞く必要を感じた。

「衛士はどうなさいました。なぜこのような犯罪者共がおそばにいるのですか」

「犯罪者とはずいぶんな言いようだな」

「だいたい何だお前は。稜曄[ロンファ]の役人か」

 私はラティアレームと鉄盾[ティエジュン]を睨みつけた。

「そうか、お前達と直接顔を合わせるのは初めてだったな。芳滝[フェンヤン]ではずいぶんと世話になった。おかげで相斗町の地理にはずいぶん詳しくなったよ」

「……ほう。特務か。そういえば追っ手の隊長が丁峰[チンフェン]という名前だと閃兄が言っていたな」

「そのへんの話は後だ。今はまず宋典[ソンテァン]の手から抜けんとな。丁峰[チンフェン]、協力せよ」

「ハッ、畏まりました」

 確かに話は後だ。一瞬、陛下がこの者達に脅されているのかという馬鹿げた考えが脳裏をよぎったが、よりによって陛下がそのような屈辱に甘んじられるはずはない。それに黄鋭[ファンルイ]の衛士というのは相手が鉄盾[ティエジュン]だからと言って引けを取るような連中ではない。何か私には思いも寄らぬ理由があるのだろう。だがその理由など今はどうでもいいことだった。

 まずは陛下をお逃がしせねば。

「それはそうと」

 陛下が私の側に来られた。耳を、と言われて顔を寄せる。陛下は私の耳元でささやかれた。

「俺が女装していた事を誰にも喋るな。喋ったら北極海の忘娘島で一生岬守をさせるぞ」

宋典[ソンテァン]

「まだ見つからんのかっ!」

 那崑[ナコン]が怒鳴った。報告に来た兵が身をすくめる。

那崑[ナコン]、やめろ。その者のせいではない」

「は、失礼しました。すまんな、八つ当たりだった」

 兵は「必ず見つけますッ!」と叫ぶとまた街へと駆け戻っていく。

「どこに消えたかな。それらしい報告がまったくないというのはどういうことだ」

 俺は唇を噛んだ。

 皇帝の消息は完全に不明だった。街中で黄鋭[ファンルイ]衛士を連れた皇帝などといえば、鴨の群れの中に入った白鳥のようなものだ。どんな細い路地も家の中もすべてしらみつぶしに捜していけば一刻程度で見つかるはずだった。皇都は城塞都市としては広大とはいえ、せいぜい三公里四方の街にすぎん。皇帝が特務本部から逃げ出してから我等がそこにつくまでの時間は四半刻程度だったはずだ。その時間ではたいした隠れ場所も見つけきれなかったはず。

 皇都の外に出た可能性もない。東西南北の各門はそれぞれ一個樹隊が封鎖している。どこからもそのような伝令も狼煙もない。

「皇帝が見つからない事態も考えなくてはなりません。後一刻もすると第一重杜集隊が展開します」

 その場合のことは考えていないわけではなかった。皇帝暗殺に失敗し、その後の捕捉もできず、第一重杜集隊が皇都を包囲した場合、我々の立場は難しいものになる。

 表向き、我々は今だ董瓶[トンピン]を倒し皇帝を救う為の義軍である。よって第一重杜集隊と戦う理由はない。だが反乱に対する調査が進めば俺が黒幕である事はいずれ判る事だ。いや、皇帝の事だ、すでに気づいているに違いない。

 となれば皇帝を取り逃した場合、俺達は即座に撤退する必要があった。もちろん旧領に戻っても攻め滅ぼされるだけだから、さっさと南下して菩蓉阿帝国にでも亡命する必要がある。

「第一重杜集隊が視認出来るまでは捜索続行。もしそれまでに発見・殺害出来なかった場合は仕方がない、撤退する。手筈は良いな」

「ハ。整っております」

 ただ逃げるだけでは追撃を受ける。第一重杜集隊は四個杜隊、五千人からなる四方編成の精鋭だ。まともに戦えば勝ち目は大きくはない。従って俺達は皇都から逃げる時には要所に仕掛けた爆弾に点火し、その混乱に乗じる予定だった。

「諦めるな。諦めさえしなければまた再起出来る」

 俺は那崑[ナコン]の肩を軽く叩くと特務本部の屋上から皇帝が潜伏していると思われる方向を睨んだ。

猷示[ユウシ]

 俺達は皇都の西側、黄舷門から伸びる黄大路と緑舵門から伸びる緑大路の交差点までたどり着いた。二度、敵の捜索部隊に遭遇したが、一度は特に何の関心も示されず、二度目は俺の風体は改められたが女装した燎帝[リアンティ]はそのまま放っておかれた。

 敵兵は良く訓練され、また統率されていた。あくまでも燎帝[リアンティ]とその護衛が彼らにとっての捜索対象であり、女など容姿がどうあれ時間を掛ける価値はない事を彼らはよく理解していた。だがそれが敵にとってはかえって悪かったのかもしれない。もし兵が自分達の任務よりもラティアにちょっかいをかけることを選ぶような質の悪い連中であれば、俺は放っておく事はできず、結果としてそれは諍いの元となり、燎帝[リアンティ]の正体を晒す原因となったかもしれなかった。

 とにかく俺達は包囲網を突破していた。この付近も爆発があったようで、まだいくつかの建物が煙を上げていた。数十人の警官と消防隊が力尽きたように道ばたに座り込んでいる。大路は皇都から逃げ出そうとする人々でごった返していた。

「抜け出したな」

 俺は菊花[チーファ]にささやいた。

「これからどうする」

 ラティアも顔を寄せてきた。なんとか抜け出したとは言え、皇都を実質的に支配しているのは宋典[ソンテァン]の部隊だ。油断は出来ない。

「門は押さえられてるわね」

 菊花[チーファ]はさっきから前に進まない大路に充満した避難民の列を見た。

「外に出るのは無理だから、どこかの路地に隠れるわよ。あと一刻もすれば応援が来るでしょうし、そうなれば宋典[ソンテァン]は逃げるしかなくなるわ。まさかここで応援部隊と一戦交えるほどの馬鹿じゃないでしょうし」

 それから出て行けば問題なし、か。こちらには特務の隊長さん達もいるしな。

 俺は隣で避難民のふりをしながら周囲に目を配っている丁峰[チンフェン]とその部下達をちら、と見た。驚いた事にこの男はあの白狼を芳滝[フェンヤン]まで連れてきたご本人らしい。というか、実際には白狼が半ば無理を言ってついてきたということらしいが。

「俺から一つ提案があるんだが」

 燎帝[リアンティ]が話しかけてきた。俺はあえて距離を取る。こいつには色々と言いたい事がある。今はそんな場合ではないが、直接話せば自制がきかなくなりそうだ。

「どこか隠れる当てでもあるの?」

「皇宮に行こう」

 とんでもないことを言いだしやがった。

「正気か、そなた。皇宮は押さえられているのだろう」

「だが今はおそらくほとんど兵はいないはずだ。門の抑えに一樹隊、内宮の包囲に一幹隊程度だろう。今ならば奪取出来る可能性は高い」

「いくらなんでも無理よ。私達は十人もいないんだから」

「あいつらがいるさ」

 燎帝[リアンティ]は群衆を避けて道ばたにいる警官達を見た。

「なにより宋典[ソンテァン]がつまらん事に気づくかも知れん。その前に皇宮を奪回する必要があるんだよ」

「つまらん事……あ!」

 菊花[チーファ]燎帝[リアンティ]の言いたい事がわかったらしい。俺とラティア、棉紗[ミアンシャ]は顔を見合わせるだけだ。何が言いたい?

「内宮よ。あそこには」

「……なるほど」

 人質か。

「そうだ。内宮には俺の家族、大臣、それに使用人達がいる。彼らを盾にされれば終わりだ」

 宋典[ソンテァン]燎帝[リアンティ]を探す為に部隊を分割する必要はなかった。皇宮の塀の上に彼らを並べ、一人ずつ斬っていけばよかったのだ。もし燎帝[リアンティ]がそれを見て見ぬふりをすれば、燎帝[リアンティ]の威厳は地に落ちる。燎帝[リアンティ]は嫌でも出て行かねばならなかっただろう。

 それをしなかったのは宋典[ソンテァン]の誇りかもしれない。また後の事を考えればすべてを董瓶[トンピン]のせいに出来るかどうか迷った面もあるだろう。

 だが宋典[ソンテァン]は追いつめられている。その利用価値に宋典[ソンテァン]が気づくかどうか……だがもし気づけばためらわず行うだけの価値があるだろう。

「内宮はまだ陥落していないだろう。この人数の戦闘部隊が援軍として入ればあと一刻や二刻、なんとかなる」

 そう言って燎帝[リアンティ]はなんと、俺達に頭を下げた。

「頼む。力を貸してくれ」

宋典[ソンテァン]

「皇宮だと……!」

 やられた。

「しかしどうやって捜索を逃れて皇宮へ……」

「隠し通路でもあったか変装でもしたか、とにかく今はそんな事はどうでもいい。兵を集めろ。皇宮を攻める」

「ハッ。しかし時間はかなり厳しいかと」

「わかっている。だがここで賭けずにいつ賭ける?残り半刻で皇宮を占領して皇帝を殺せば俺達の勝ち、もし半刻を奴が持ちこたえれば奴の勝ちだ。賞品は世界でも最大の領土を持つ国家の支配権。どうだ、この賭を前にして逃げるのか?」

「いいえ。我々はそのような腰抜けではありません」

 那崑[ナコン]が笑った。

「いいでしょう。何より我等はこのためだけに数年間を費やしてきたのです。あと半刻でその決着がつくのですな。これぞ男の人生ですよ」

「よし、出撃!皇宮に総攻撃だ!」

 一斉に周りにいた士官、兵が俺に敬礼をした。俺も彼らに敬礼を返す。

 部隊は一斉に皇宮に向けて動き出した。

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