第十二段 二人の懸案

衝武[ヘンウー]

「後の問題は一つだけ、でござりますかな」

 卓の上に置かれた杯は二つ。一つは不肖、もう一つは閃殿のものでござる。一口で飲み干せる大きさの杯の中には竜酒が満たされており、馬車の中にはそのとろりとした琥珀色の液体の芳醇な香りが満ちていた。

「問題とはなんですか」

「わかっておられるのでしょう。鉄盾[ティエジュン]殿ですよ」

鉄盾[ティエジュン]には金を払いました。これで貸し借りはなしですよ」

 閃殿が竜酒をくいっと空けられた。手酌でもう一杯を注がれ、また飲み干される。

「姫様はそうは思っておられないご様子ですぞ」

「わかっていますよ。ですが、私はなにもする気はありません」

 閃殿はあまり酒にはお強くない。竜酒のような強い酒を何杯も飲まれてはだんだんと目つきが怪しくなられるのは当然じゃ。

「武さん。私は鉄盾[ティエジュン]の事を嫌いというわけではないのです」

 卓に肘をついてさらにもう一杯。

「ですが、何でしょうねえ……やはり、嫉妬ですかねえ」

「でしょうな。不肖も正直、鉄盾[ティエジュン]殿には複雑な気持ちを持っておりもうす。どうすれば良いのか、不肖にも実はよくわからぬのでござる」

 姫様が鉄盾[ティエジュン]殿に友情……いや、それよりも少し深い気持ちをお持ちではないか、と不肖も閃殿も思っておる。このまま鉄盾[ティエジュン]殿が[リャン]を去れば、その気持ちは淡いままにやがて消えていくのでござろう。じゃが、もし鉄盾[ティエジュン]殿が残って下されば……。

 しかし不肖達が鉄盾[ティエジュン]殿を引き留めて良いものか。そして、なによりも鉄盾[ティエジュン]殿がその申し出を受けて下さるじゃろうか。鉄盾[ティエジュン]殿は今までに昴司会や青虞団などの大保刃[バオレン]会からも勧誘を受け、そのすべてを断って流れの保刃[バオレン]をされておられた方じゃ。我等の一員となる理由はない。

 そして鉄盾[ティエジュン]殿は姫様をどう思われておられるのじゃろうか。

 ふと閃殿を見ると、すでに卓に突っ伏して寝息を立てておられた。

 不肖は馬車の外に出た。皇都を出たのは本日の昼をやや過ぎた頃であった。茱から呼び寄せた商隊に皇都の外で合流し、そのまま元の順路に戻る為にやや早足で商隊を進め、来覧街道を西へと向かい、日が暮れるまで進んでから野営に入ったのじゃ。

 すでに十八刻をまわり、空には満天の星。明日の朝も早いのじゃからしばらく星を見ながら酒を一杯飲んで寝る事にしよう。

 そう考えながら竜酒を一口含んで、不肖は姫様がこちらへと歩いてこられるのに気がついた。

ラティア

 翌朝、私は普段よりも少し早く目が覚めた。閃兄は昨晩少し飲み過ぎたらしく、まだ起きる気配はない。武もまだ馬車の隅で大きな体を丸めていた。

 私は棉紗[ミアンシャ]菊花[チーファ]を起こさぬようにそっと馬車の外に出た。起床時間まではあと半刻はある。

 外に出ると草原の朝露が朝日に輝いていた。早朝の涼しい風が吹き渡り、昇りかけた太陽もまだ柔らかい光を投げかけている。

「姫様、おはようございます」

 屋根の上で見張り当番をしていた憐呀永が私を見下ろしていた。

「おはよう。何か異常は」

「いいえ、良い朝よ」

 憐呀永はにっこりと微笑んだ。今年で二十四になる彼女は、その細い身体にもかかわらず戦斧の遣い手だ。優しげな顔立ちからは想像も出来ぬほどに戦場での動きは荒々しいが、普段は見かけ通りの優しく物静かな女性である。

「姫様も早いわね。気が合うのかしら」

「何の事だ?」

鉄盾[ティエジュン]さん、ついさっき起きてこられて。向こうの林の方へ刀を持って行かれたわ。朝の素振りだそうよ」

「……そうか」

 どうしよう。話は朝食の後にと思ったが。

「姫様」

 憐呀永が屋根からとん、と飛び降りた。彼女は私よりも頭一つ背が高い。だからこうして向き合うと私は少し彼女を見上げるような形になる。

「私、思うのだけど」

 彼女は腰をかがめて私と目線を合わせた。

「女は時には待っているだけでは駄目よ。戦いと同じ。先手を打つべき時というのがあるわ」

「……何の事だ」

 私は同じ台詞を繰り返した。

「ここにいて欲しいのでしょう?」

 誰の事かは言われなくてもわかる。私は……。

「うん」

 頷いた。

「だが、なぜこのまま別れたくないのか、私にはわからない。あの者が傍にいないのは嫌だ、とは思うのだが……。これは、こ、恋、なのか?」

 その言葉を口にした途端、顔がすごく熱くなった。心臓がドキドキとうるさい。

「どうかしらね」

 憐呀永は微笑んだ。

「私は姫様の心の中まではわからないわ。だけど、急がなくてもいいと思う。まず傍にいてもらって、ゆっくりと互いを知っていけばいいんじゃない?姫様の気持ちが本当はどういうものなのか……それは一緒にいれば自然とわかっていくものだと思うから」

 そうか。

 私は静かに息を吐いた。

 焦る事はない……か。まずは猷示[ユウシ][リャン]に残ってもらうように頼もう。猷示[ユウシ]がもし嫌だと言っても、頭を下げてみよう。思い上がり、勘違いかもしれないが、猷示[ユウシ]は私に少しは興味を持ってくれている……と、思う。もしかしたら猷示[ユウシ]ももう少し一緒にいて、私の事を知りたい、そう思ってくれるかもしれない。

「行って、話をしてきなさい」

 まるで姉のように憐呀永が私の肩に手を置いた。

「大丈夫。きっと鉄盾[ティエジュン]さんは姫様の話を聞いてくれるわ。もし駄目だったら私の所にきなさい。そういう時に話ができるのは女同士しかいないんだから」

「……ああ。ありがとう」

 私は軽く彼女の手を握って感謝を伝え、猷示[ユウシ]がいるはずの林の方へと向かった。

猷示[ユウシ]

猷示[ユウシ]

 人の気配に振り向くと、そこにはラティアがいた。

 いつも編み込んでいる長い髪は起きたばかりのせいか、自然のままに風に吹かれていた。朝の静かな光の中で栗色の髪がきらきらと輝いている。やや逆光のせいで、まるで後光が射しているかのようだ。

 俺は不覚にも見とれていた。いや、この少女に見とれない男などいない。艶やかで、清楚で、それでいて若枝のような強さがそこにある。

 俺は軽く目を閉じてその姿をよく覚えておく事にした。多分、今日ここを発てばもう会う事もないだろう。

「おはよう、ラティア。早いな」

「おはよう。そなたこそ。朝の鍛錬か」

「最近少し使ったからな、調子をみていただけだよ」

 俺は七代実克を鞘に収めた。

「特に曲がりも反りもない。刃こぼれも心配するほどはなかったから研ぎ直しもいらんな」

「そうか」

 ラティアはゆっくりと俺に近付いてきた。なにか言いたげな態度に少し戸惑う。

「どうした?」

「……そ、その」

 顔を伏せ、珍しく言いよどむ。

「話が、あるのだが」

 なんだろう。まあ昨日までの雇い主の話だ、聞こう。

「そなた、これからどうするのか、当てはあるのか」

「当て、か」

 俺はどう答えようかと考えなくてはならなかった。

 三年前にも同じようなことを聞かれた事がある。その時は迷わず答える事が出来たが……今はその時の決意は揺らいでいる。

 皇都に行き、燎帝[リアンティ]に会い、直に言葉を交わした。一介の保刃[バオレン]風情にはまずあり得ない事だ。もしそんな事があったなら言いたい事を言うつもりだった。ずっとそう思ってきた。が……俺は、結局何も言えなかった。

 それは俺が燎帝[リアンティ]と諍いを起こせば[リャン]に……そしてラティアと棉紗[ミアンシャ]に迷惑がかかるということもあったが、俺自身が燎帝[リアンティ]に真っ直ぐな憎しみをぶつける事ができなくなっているからでもある。

 七年前は違った。あの時はただ純粋に燎帝[リアンティ]黄鋭[ファンルイ]が憎かった。もし俺が一人だったら迷わず皇都に斬り込んで敵わぬまでも燎帝[リアンティ]に天軌流の名を叩き込もうとしただろう。だが俺には菊花[チーファ]を育て上げるという何よりも重い使命があった。だから憎しみを胸にしまい、とにかく生き延びて菊花[チーファ]を守ることにすべてを費やした。

 今でもその時の気持ちははっきりと覚えている。

 だがあれから数年。世間を知り、政治を知り、世の中は善と悪などという簡単な物差しで測れるものではないことを知った。それに伴い、燎帝[リアンティ]黄鋭[ファンルイ]の事を憎みきれなくなってきたのだ。いや、今でも憎い。憎いが、昔のように純粋に燎帝[リアンティ]を悪だと決めつけて斬る事はもう出来ない。

 菊花[チーファ]が成長し、今やあの燎帝[リアンティ]から仕官を勧められるほどになったこの頃、俺は次に何をすればよいのかわからなくなりつつあった。だから、正直に答えた。

「正直に言えばないな。東の方にでも行ってみるか、と思っているが」

「そ……そうか」

 ラティアは俺と三歩ほどの間を置いて立ち止まった。眼はきらきらと揺れる髪にさえぎられて見えない。やがて少し小さな声が聞こえた。

「急ぐのか」

「……いや、別に。ただ、特務や黄鋭[ファンルイ]からラティアと棉紗[ミアンシャ]を護るという仕事は終わりだろう。金も貰ったし、今日にでも発とうと思う」

 そう言いながら俺はそれを自分が望んでいない事に気づいていた。

 原因はわかっている。

 俺は人に対する興味が薄い。誰が生きようと死のうと心の奥ではどうでもいい、と思っている。関わりがあった人達の事もすぐに忘れる。その俺が本当に大切に思っているのは菊花[チーファ]だけだ。

 いや、菊花[チーファ]だけだった。

 だが俺はこの美しく、強く、不器用な少女に惹かれるものを感じていた。この気持ちが恋愛感情につながるものかどうかはわからない。命がけで共に戦った武術家同士の絆か、年下の少女に対する庇護心なのかもしれない。だが、少なくとも気にかかるのだ。この数年、感じた事のない気持ちだった。

 もちろんそれは身の程知らずというものだ。閃にも言われたとおり、俺は流れの保刃[バオレン]に過ぎず、ラティアは実質的には領主の姫なのだ。

 わかっていても、やはり少し胸が苦しい。

「世話になった。ほんの何日かだったがずいぶんと長かった……いや、短かったかな。とにかくこれからも息災でな。ああ、もう商隊を抜け出して人助けなんかするんじゃないぞ。武さんにちゃんと相談してから動くんだ。そうすればきっとラティアの納得する答えを出してくれる」

 俺はその苦しさをまぎらわそうと言葉を重ねた。だがいくら意味のない事を言ってもその気持ちが薄れる事がない事もわかっている。

「鍛錬は怠るなよ。ラティアの腕はたいしたもんだが、世の中には腕が立つ上に汚い真似をする奴もいるんだ。ラティアの戦い方は少し綺麗すぎるからな」

猷示[ユウシ]

 ラティアが顔を上げた。大きな瞳が俺の目を真っ直ぐに射抜く。

 俺はなにも言えなくなった。

「そなたは[リャン]が嫌いか」

「いいや。むしろ好ましいと思っている」

「そなたが昴司会や青虞団からの誘いすら断った事は知っているが、集団に属するのはどうしても嫌か」

「そうだな……」

 ラティアの眼は真剣に俺を見つめている。ならばきちんと答えなくてはならないだろう。

「俺にはやらなくてはならない事があったんだ。だからそういう大保刃[バオレン]団に入る事はできなかった。あんな所の幹部になれば生活は保障されても自由はないからな。ただ……今はそのやらなくてはならん事がよくわからなくなってきた。正直な話、俺は何をしていいかわからないんだ」

 ラティアが静かに一歩、踏み出した。

「そのやらなければならない事、というのは燎帝[リアンティ]を斬る事か」

「……そうだ。ずっとそう思ってきた」

 口にするだけで死罪が確定する一言。だが、俺はラティアにはそれを言っても大丈夫だと信じていた。

「だが、今はそうは思っていないのだな」

「迷ってるんだ。それが本当にするべき事なのか、したい事なのか」

猷示[ユウシ]

 もう一歩。目の前にラティアがいる。頬は桃色に染まり、小さな拳は身体の横で握りしめられている。

「迷いが消えるまで……いや、心が決まるまででよい。そなた、我等と共に旅をせぬか」

 ……まったく予想しない言葉、というわけではなかった。だがあまりにも自分に都合の良い妄想だと思っていた。だが、ラティアは確かに今、俺に傍にいてほしいと言ったのだ。

 もちろんラティアが俺を想っているなどとうぬぼれているわけではない。ラティアは剣力だけは見所のある保刃[バオレン]を雇おうとしているだけだろう。いや、友人だと言ってくれたな。ならばこの先、あてもなく彷徨う俺達の行き先を心配してくれたのかもしれない。ありがたい話だ。

 だがどうする。

 俺は余計な事を考えず、この瞬間、自分が何を望んでいるのかを考えた。答えは一つしかなかった。

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